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ある金曜日の朝。
「ねえ、紫絵さあ」
「なに?」
「もしかしてセックスした?」
「はあ!?」
仕事に出かける紫絵に、那智は突拍子もない質問を投げかける。
大声を出して振り返った紫絵の顔は、
「真っ赤じゃん」
「してない!」
「うっそ」
「してないってば」
「なーんだ」
「なに、急に」
那智は紫絵の身体を爪先から頭まで舐め上げるように観察して、腕組みをした。
「先週朝早く出かけた日からなんか違うから」
「どこが…?」
「全体的に」
「…してないから」
「そ」
ならいい、と那智は背を向け部屋に戻っていった。
紫絵はしばらくその場から動けずにいたが、はっとしてバッグを手に取った。
「い、いってくるね!」
いってらっしゃーい、という那智の声を聞いて、騒々しく部屋を飛び出した。
正直な話、うきうきしていたのは事実。
流川にあんなことをされて困惑しているのは確かだが、忘れられないキスだった。
どのくらい忘れられなかったと言われれば、鏡に映る自分の唇をぼうっと見つめてしまったり、気づいたら指で触れていたり。
フラッシュバックするあの時の香りと感触。
那智にああ言われて、自分がどれほど浮かれているか思い知らされた。
(ほんと、昔から目ざとい…)
「本宮さーん、お電話です。流川さんから。」
「へっ!?」
同僚のそれに、紫絵だけでなく編集部全体の空気が止まった。
月間バスケ編集部で流川といえば、UCLAの流川楓以外にいないことはチーム全員が把握している。
紫絵はあわてて受話器をとった。
「も、本宮です」
『うす』
電話のむこうの声が流川のものだと確認した瞬間、編集部内の視線を強く感じて思わず縮こまり
小声になる。
「な、なんで会社に電話かけてくるの…!?」
『紫絵さん、なんで小声なんだ』
「みんな見てるの!」
『なんで』
「なんでって…そっちこそなんで…」
『今日、仕事何時まで』
「え…わ、わからない…」
『8時ごろ、下で待ってる』
「へ?」
『来てくんなきゃ、またこの番号にかける』
「わ、かった…」
そっと受話器を置いた紫絵に、部内の視線が一気に集中する。
あわてて荷物をまとめ、ノートパソコンを抱えて事務所を飛び出した。
(今日は、朝からこんなのばっかり…)
午前中の打ち合わせを済ませ、気休め程度の昼食、午後も打ち合わせと取材。
日が長くなったとはいえ、事務所に戻るころにはすっかり暗くなっていたし、紫絵がデスクへ戻っても今朝の流川の電話のことなど皆すっかり忘れていた。
資料作りを済ませ、時計を見ると既に8時前。
もし流川がもう既にビルの下で待っていたら?
できるだけ一緒にいるところを人に見られたくない。
流川は紫絵が担当しているため、一緒にいても何の問題もないはずなのに。
一階へ降りるエレベーターの中で、紫絵は髪を撫で付けた。
そして、口紅を塗り直す。
「……」
何をやっているんだか。
チーン、というエレベーターの音とともに、紫絵は我に返った。
ビルの外へ出ると、想像していたよりもずっと強い存在感を放つ男がそこにいた。
「流川くん」
紫絵が近づくと、それに気づいた流川はイヤホンを外した。
「うす」
「あの、何か急用だった?」
流川は黙ったまま紫絵の顔を見つめる。
「…流川、くん?」
「飯、食いにいきましょう」
「え?う、うん」
そう言って歩き出す流川。
こっち、と促され黙って着いていく。
紫絵の歩く速度にあわせて、ゆっくりと横に並ぶ。
「紫絵さん、明日休みでしょ」
「あ、そうか…土曜日…」
「仕事しすぎ」
曜日感覚のない毎日。
金曜日の夜にいつも気付くのだ。
「でも明日は試合がひとつあって」
「それ、午後のやつでしょ」
「なんで知って…」
「昨日、相田さんに会って聞いた。紫絵さんもくるって」
なるほど、相田弥生から。
紫絵は納得、という顔で苦笑いした。
「だから、帰さねー」
「…え?」
流川は立ち止まり、紫絵の瞳をまっすぐ見つめた。
この視線に酷く弱い。
そうではないかと思っていたが、今確信した。
目を丸くして言葉の出てこない紫絵に、流川はもう一度言った。
はっきりと。
「紫絵さんのこと、帰さねー」
to be continued…