ログイン |
仕事を終えて帰宅したのが午後10時。
那智とのルームシェアが決まってしばらく経つが、ようやく少しずつ荷物をまとめはじめた。
この調子で残業が続けばおそらく引越しまで使わないであろう食器を段ボールに詰めていると、突然チャイムが鳴った。
こんな時間に訪ねてくる人物は二人しか心当たりがない。
那智と、弟の直樹。
今夜の来訪者は後者だった。
「俺聞いてないんだけど、引越しの話」
「お母さんに聞いたの?」
「昨日実家に寄ったときにね」
しまった、先に直樹に言うべきだった。
紫絵はバツの悪い表情で直樹にコーヒーを出した。
「しかも那智とルームシェアなんて言うじゃん」
あからさまに嫌な顔をする直樹。
紫絵の弟は昔から那智を嫌っていた。
会えば悪態をつく直樹と、それを笑って流す那智。
那智に嫌味を言うのはもしかして那智が好きだからなのかと直樹に尋ねたことがあったが、直樹は珍しく紫絵に冷たく当たった。
「姉ちゃん何もわかってないんだな」
ため息をついてそう吐き捨てた直樹に、2日間口をきいてもらえなかった。
それが高校生の時の話。
あれから10年ほど経った今も、ふたりの関係は変わらない。
「ねえ、なんでそんなに那智のこと嫌うの?」
「嫌いだから」
「答えになってないんだけど…」
「そっちだってなんでアレと仲がいいんだよ」
「那智のこと代名詞で呼ばないで」
「はあ…仲良くしてるだけならまだしもルームシェアって…」
うまくかみ合わない会話に紫絵も直樹もため息をついた。
明らかなのは、会話を噛み合わせようとしないのは直樹のほうであること。
確信を突こうとするとするりと交わし、姉ちゃんはわかってない、と目とため息で訴えてくる。
「母さんが、婚期が遅れるって」
「そんなこと言ってた?」
「俺もそう思うけどそんなことはどうでもいい」
「お母さんだってどうでもいいはずよ」
「…」
直樹はつい黙りこくってしまった。
母の話をする時の紫絵の目は、どんなときよりも冷たい。
紫絵と直樹の母は、ふたりの子供へ注ぐ愛情の比率を間違えた。
母に愛されなかった姉と、母に愛情を注がれすぎた息子。
姉はそれを苦痛に思い、息子も同時にそれを苦痛に思った。
直樹から見れば、早くに自立して編集者として働く美しい姉は酷く高スペックで、母親を満足させるためだけのために大企業へ勤める自分はとてつもなくつまらない人間に思えた。
直樹は、幼い頃から母親に注がれすぎて許容量を超えてしまった愛情を、いつの間にか紫絵に注ぐようになっていた。
いわゆるただのシスコンであると自負している。
そんな愛しい姉にまとわりつく那智という友人。
今まで紫絵が付き合ってきたどんな元彼たちよりも手強く、目障りだった。
姉の元彼を牽制するなんて下品なこと、絶対に自分はしない。
本当はしたくてたまらないが、紫絵が楽しそうならそれでいい。
そう思っていた高校時代。
紫絵の元彼たちは、気のいい弟の直樹といつも仲良くなった。
紫絵の男を見る目は悪くなかったのか、みんな「いい奴」だった。
それでもなぜか長続きはせず、なぜか紫絵が振られてしまう。
直樹が高校3年のある日、紫絵の元彼とばったり会ったことがあった。
そのとき彼から聞いた一言に、直樹は絶句したのだ。
「東っていたろ?東那智。あいつ怖かったな〜ハイエナみたいに紫絵の周りうろついててすげー牽制してくんの」
紫絵を男から遠ざけていたのは、あの女だった。
それを知ったとき、本気で那智を嫌いになった。
(那智のブスと一つ屋根の下なんて、絶対に許さん)
「姉ちゃんは、結婚なんてしなくていいよ」
「何言ってんの、するよ」
きっと、そのうち、と自信なさそうに付け足す紫絵。
「俺もできない気がするし」
「できない、としない、は違うでしょう」
「じゃあ、しない」
「お母さんが泣くよ」
「泣きゃいいだろ」
紫絵は笑った。
弟は気難しいうえに親友の那智を受け入れてはくれないが、那智以外については必ず自分の味方になってくれる。
それについ甘えてしまうのだ。
「ご要望の会社にまで就職したんだ、そろそろ好きにさせてほしいよ」
「だとしてもいい会社なのに」
「お互い結婚できなかったら、一緒に住めばいいよ」
「何言ってるの」
「那智は放っておいて」
「那智もきっとついてくるよ」
「それは最悪」
「まあ、那智はきっととつぜん結婚するだろうな」
「……それはない」
「どうして」
「あんなの貰い手ねえよ、ブスだし」
とにかく、ルームシェアは決定だからね。
紫絵は直樹に人差し指を向けてきつめの口調で言った。
直樹はわかった、と頷き、そのかわりにと条件を出した。
「来週、那智呼んで飯な」
「…いいけど、喧嘩しないでよね」
「あいつ次第」
紫絵がひとつため息をついて携帯を見ると、ちょうど那智からメッセージが届いた。