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『紫絵さんのこと、帰さねー』
そんなことを言われ、あれよあれよと連れてこられたのは、小ぢんまりとした薄暗いカジュアルレストラン。
(こんな雰囲気の良い店に連れてこられてしまった……)
流川のチョイスにしてはやたら気が利いた店だなと、紫絵はワインの香りを嗅ぎながら思う。
「紫絵さん、何食う」
「え、あっ、何があるんだろう」
本日のおすすめと書いてあるメニューが差し出され、料理もやたら美味しそうだなとあらためて緊張してしまう。
適当にアラカルトを注文して、一口ワインを口に含んだ。
「あの、流川くん」
「ん」
モヒートを飲む流川は何か話題を振るわけでもなく、じっと紫絵を見据えている。
どうも落ち着かず、紫絵は思わず口を開いた。
「初めてだね、お酒一緒に飲むの」
「普段はそんな飲まねー」
「そうなんだ。明日は休み?」
「休み。紫絵さんの取材についてく」
「えっ、来るの!?」
「ダメなのか」
「だ、ダメじゃないけど…」
明日は土曜だが、午後から大学バスケの試合の取材に行く予定だ。
だからといってこの誘いを断る理由にもならず、この状況。しかも流川は明日も着いてくると言う。「帰さない」と言うのは、いったいどこまでのどういう意味なのか。
この一言で、それが自惚れた捉え間違いではない可能性が浮上してしまった。
「流川くんも見に行くんだ」
「うちから行けばいい」
「え」
「紫絵さんはうちに泊まって、一緒に行く」
「……か、帰る…よ?」
「帰さねーって言った」
流川の視線が、紫絵を鋭く射抜いた。
いつかの朝の、公園での出来事を思い出してしまい紫絵は狼狽える。
それだけではない。映画に連れて行かれたり、昼食に付き合わされたり、突然抱き寄せられたり。彼の行動は自分を慕ってくれてのことだと言うことはわかるが、問題はその原因だ。流川にこんなにも懐かれるようなことをしただろうか。
『大学ん時から、アンタのこと見てた』
そういえば、そんなことを言われたような気がする。
(それを言ったら私は……あのインターハイから……いや、知ってただけだし!)
今日帰してもらえるかどうかは後で話を付けるとして、とりあえず今は食事を楽しもうと紫絵は気持ちを切り替えようとする。しかし流川の視線は未だ縫い付けられたままで。
「紫絵さん、歳いくつ」
「え? 26歳だけど」
「身長は」
「ひゃく…155センチ」
「体重」
「何でそんなこと答えなきゃいけないの!」
「む……」
頬杖をついて、ふーんと興味があるのかないのかわからない相槌を打つ流川。
この質問責めはいったい何なのか。流川なりの興味の示し方なのだろうか。
じゃあ、と少し考えた流川はまた口を開く。
「なんでロスにいた」
「え?」
「4年前」
「長期留学してたの、南カリフォルニア大学に」
「南カリフォルニア大学」
「流川くんがUCLAでバスケしてたの、見てたよ」
紫絵の言葉に、流川の眉が一瞬ピクリと動く。そんな流川に気づくこともなく、運ばれてきた料理を取り分けながら紫絵は続けた。
「インターハイで山王に勝った時から、流川くんのことは知ってたの」
「……」
「地元の東京代表の応援に行ってたんだけど、初めてそこで流川くんを見たんだ」
取り分けられた料理を流川に渡すと、流川は料理と紫絵を交互に見た。
「びっくりしちゃって。その時の驚きとか、感動とか、熱気とか……ホテルに戻ってすぐ書き留めたの。あの衝撃を忘れたくなくて」
「書き留めた」
紫絵は流川を見て微笑み、頷いた。
「私が初めて書いたバスケの文章。ジャーナリストになろう、って初めて思った瞬間だった」
紫絵は思わずあの広島の夜を思い出し笑顔になった。勢いで書き殴った文章は、量は多くても今書いている記事に比べれば酷く荒削りで形にもなっていないものだったように思う。それでも、今ここで書き留めておかなければ……と焦るほどに素晴らしい試合だった。そして全ての選手が素晴らしかった。
「流川くんのインパクトが凄すぎて、ロスで見かけた時もすぐにわかったよ」
「やっぱり、あれは紫絵さんだった」
「え?」
「リーグの時も、いつもいた」
「な、何でそんなこと知って…」
あんなたくさんの人の中で、どうして知り合いでもない紫絵を見つけられたというのか。
「わからん」
「え?」
「何でか知らんが、紫絵さんはどこにいてもわかる」
酷くロマンチックなことを言われているような気がするが、そんなことがあり得るのだろうか。だが、流川楓という男は嘘でそんなリップサービスを口走るような人物ではないはずだ。
(いや、でも、流川くんはすごくモテるし……知らないだけで、随分経験値が高いのかも……)
高校時代から女子の注目の的だった流川。UCLAでも、海外にもかかわらずその甘いマスクで多くの女性を惹きつけた。
そんな様子を、紫絵は陰で見ていただけのはずなのに。
「あ、ありがと、う……?」
何と答えて良いかわからず、とりあえずお礼を言ってみる。
「記者になったの、雑誌で知ってた。その時名前も知った」
「そうなんだ」
「ロングインタビューは紫絵さんのしか受けてない」
「そ、そうなの!?」
「紫絵さんのとこの編集長から連絡が来たけど、紫絵さんじゃないと受けねーって言った」
「えっ」
(だから編集長、私を指名して……)
バスケの取材チームでも、流川楓の取材なら皆が行きたがる。
彼はそんな選手なのだ。
そんな中、チームの中ではまだまだ未熟者の自分にそんな大役を任せるなど妙だと思っていた。
「でも、どうして……」
「もう一回会いたかったから」
「あ……」
「紫絵さんに」
(どうしよう)
気付かぬうちに、またその鋭くて熱い視線に刺されて動けなくなる。
「初めて会ったときに決めた」
「何を……?」
そして徐々に激しくなる動悸。
きっとワインのせいだ。そう思いたいが、まだ1杯目だからそんなはずもなく。
「俺のもんにするって」
「わ、私の気持ちも聞かないで、そんなこと……」
「……彼氏がいるのか」
「い、いません」
「なら続ける」
「何それ!?」
「む、ダメなのか」
「ダメ、とかでは……」
「キス、嫌そうじゃなかった」
「あっ……それは」
絆されていく。
「あんな顔したらその気になるだろ」
「ご、ごめんなさい……」
思わず謝ってしまった紫絵に、流川の表情が少し曇った。
すると突然立ち上がり、驚く紫絵の腕をとる。
「る、流川くん……?」
「行こう、紫絵さん」
料理も酒もそこそこに、流れるように会計を済ませそそくさと店をでた。会計の間も腕は離してもらえず、ただでさえ目立つ流川のおかげで周りの目も気になってしまった。
店から出ても掴まれたままの腕に、紫絵はいいかげん声を上げた。
「流川くん……!腕っ」
「ん……ああ、こうする」
流川は掴んでいた腕を離すと、深希の手首に手を滑らせて指を絡めた。
「そう言うことじゃなくてっ!」
「……」
「どこ行くの……」
「俺のうち」
「だ、ダメだって…」
「何で」
何で。その問いに、返す言葉が見つからない。
正直なところ、絆されているとはわかりながらもどこか強引で不器用な年下の流川に惹かれているのも事実。
こんなにもまっすぐ想いをぶつけられることなんて無かった。
忘れかけていた気持ちが沸き上がり、流川に見つめられるたび、ようやくカンジタが完治した其処が少しだけ疼いていることにも気づいていた。
「ごめんなさい……あんまり流川くんが、強引だから……」
「……」
「気持ちが整理できなくて……」
「じゃあ行きながら整理すればいい」
流川は指を絡めた手を引き、深希の歩幅に合わせて歩き出した。
「またそういうこと言う……」
気持ちを整理したいという紫絵の思いを尊重してか、しばらく喋らなくなった流川。
チラリと横目で見上げると、その視線に気づいた流川とばっちり目が合ってしまい思わず逸らす。
夜風で火照った体は徐々に落ち着いたが、右手から伝わる熱は未だ紫絵の思考を混乱させている。
こんな状況なのに、知り合いに見られたらどうしようとか、那智に連絡したいとか、明日は何時に行けばいいんだっけとか、余計なことを考えてしまう自分を嘆いた。そんなことより今これから起こるであろうことをどう処理すればいいのか考えなければならないのに。
「紫絵さん」
「え、何……?」
「……嫌だったんすか……キス、したの」
「えっ」
さっきまで刺すような視線だったはずなのに、打って変わって目を逸らしてばつの悪そうな顔をする流川。
「さっき、謝ったから」
「あ、いや、それは……」
そうじゃない。
「ただの条件反射で」
「じゃあ、良かったのか」
「白か黒しかないんだね、流川くん……」
「む……」
思わずクスリと笑ってしまった深希に、少しだけ照れくさそうな表情を見せた流川。
それが何だか酷く愛おしく思えてしまって。
「流川くんは……どうだったの?」
紫絵の問いに、流川は立ち止まった。
人の少ない公園通り。
街頭の灯りだけが二人を照らしていた。
「嫌なわけねー」
「そう……」
「むしろ、思ったより」
「え?」
「……思ったより良かった」
「あ……」
「だから今こんな必死になってる」
その視線だけで、どうにかなってしまいそうだ。
いつかの時のようにぐっと腰を抱き寄せられ、流川は腰を折って紫絵の首筋に顔を埋めた。
すう、と紫絵の香りを嗅ぐ仕草はあの時と同じで。
「る、かわく……ん」
「紫絵さんが欲しい」
「っ……」
「ぜんぶ」
首筋に埋めていた顔を上げると、今日一番近い距離で視線を絡められて。
(もう、だめかも)
絶対に逃さない、と言われているようだった。
「だからやっぱり、帰さねー」
そして以前と同じ、噛み付くようなキスが降ってきた。