更新情報

2024.4.20 また書き溜めていた記事を少しずつ公開しています。

今回は区切りを設けました。→ http://mblg.tv/sakayuka/entry/388/
ここ(2023.11)から時系列順に?読んでいただければ。

書きなぐってそのまま尻切れのようになってるものもあるかもしれません。(たぶん電車を降りたタイミングとか)
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どうもご無沙汰しておりました。鮎川です。

なんとなく、これまで下書きに投げ入れたままだったこの「空白期間」の記事をアップしました。(まだ途中ですが)

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綴じられた手紙

2月も半ばだったろうか。
年賀状の時季もとっくにおわったとある休日に、ふとポストを覗いたら、僕宛に葉書が届いていた。

最初、奇麗な花の絵が目に飛び込んできたので絵葉書かと思ったけれど、片面、宛名とバックアドレスのみだったのと、手にした紙片の硬さに、それが圧着葉書だと分かった。

検めると、下段の送り主の行に懐かしい名前があった。セクマイの知り合い。
何事だろう、と暫しその場で考える。



榊と知り合うより少しだけ早くとあるSNSで知り合い、親しくさせていただいていた歳上(榊と同年代くらいか)の方、Nさん。

しかし、

榊とは一悶着あった(SNS仲間Aに意図的に仲違いをさせられた)ので、榊と付き合うことになってからは、お互いにぎこちないやりとり(主に年賀状)を続けてきた。

だから、手紙が届くとチリリと痛んだのち胸が波立つ。
当時の記憶が一気に僕を飲み込む。思い出すのはいつも同じ場面。感情。皮膚温度。
手放しでは喜べないのが正直なところ。



時系列的にはこうだ。

僕は、当時の恋人と交際中

SNSで、Nさんや榊、Aなどと知り合い、それぞれとも/グループとしても交流をもつ

Nさんと榊の間で仲違い事件がおき、二人は決別、NさんはSNSをやめる
僕はそれぞれと個別に仲良くする(Aもまたかなり歳上だったので、この人とはSNS上とグループ交流のみ)

僕、恋人と別離

僕と榊が親しくなる(付き合う方向へ向かう)

Aが、今度は僕と榊や、僕らと周りを謀り、僕らは四面楚歌をくらう。
僕と榊はSNSをやめる。
自筆の手紙にて報告


正直、榊とどうこうなってから…もっと正直に言えば、話の流れ的に一応報告しようと思ってから…
「Nさんにとっては酷な話だな。きっとこの選択を複雑に捉えられるよな」
と、ようやく気づいた。

「あんなことがあったのに鮎川くんはよく平気で榊くんと付き合えるね?」
と言われる妄想がやまなかった。

(Nさんは、当時もその後も、そのことについて一切触れたくも触れられたくもないという具合で、そこで時が止まってしまっている。何を言っても聞き入れてはもらえないだろうけれど、Aに謀られたせいで、食い違いや勘違いが起きていたのは、おそらく間違いのない事実で。
和解とまでは言わないけれど、経緯を理解はしてもらい、少しでも軟化してくれたら、と今でもわずかに思う)


どんな文章で報告をしたのかなんて、もうさすがに記憶にない。それまでのやり取りの間に差し込んだ気がする。
黙っていた方がよかったのか思う時もあるが、それはそれで騙しているみたいで僕には無理だった。

その報告の返事だったと思うが
今後のNさんと僕の関係(つながり)をどうするかは、僕に任せる
という一文だけは、今だに脳裏にこびりついていて、思い出すたびにまざまざと肝が冷えるような感覚に襲われる。

試されてるような気がした。
優しさのような、それでいて、何かを、それこそ推し量るような感じがしたから。
当時僕は20代も前半だった。大人って怖いな、と正直思った。苦しいなとも。しかしそれを招いたのは自分だった。僕の残酷さを鏡で突き返されたような感覚だった。



ここまで思い患うなら、いつかの時点でいっそ切ってしまえばいいのに。
会食し、話をし、聞き、時に対等に、時に先輩として、何より目をかけてくれていた恩義を感じていた。何も返せていいないけれど。そういう「ともだち」を手放すのは、惜しかった。
自分もなかなかズルくて弱くて失礼で、煮え切らない。15年ダラダラと綱渡りをしてしまった。

そうこれまでを振り返りながら、エントランスを去る。




さて、いつどこで開くか。



幸いなのは、奇跡的に榊に見つからなかったことだ。

年賀状が届き、それを代わりに受け取った時というのは、その時々によって
「元気にしてんのかね?」と言うときもあれば
「げ。また届いてるよ、」と茶化しつつ満面の苦笑いを見せることもある。
後者なら、受け取りながら申し訳ないなとも思う。


階段をあがり、家のドアを開ける。
開け放しの間仕切りドアの向こうには昼下がりの明かりをふんだんにたたえたメインルーム(ベッドもあるけれど)が見えた。
これまでにない明るさで、春を感じた。
ポストを開ける前となんら変わらない状態。のはずだ。
変わったのは僕だけ。
そう、この部屋を出る時はこんな未来予想できていなかった。


ため息をつきながら座卓につく。

さて、
開けるか。

開け口に手をかけると、圧着葉書って市販してるの? という文具好きの性が顔を出す。
ぺりぺりと間抜けな音を立てながら慎重に開けば、見開きの中央にひと周り小さい面積で粘着シートのテカテカが確認できる。なるほどね、と呟く。そして見慣れたおおらかな文字が目に映った。

なんという変哲もなく素朴な文章。
元気ですか?という趣旨のみだった。

でも、嬉しかった。
それが、嬉しかったのだ。

可能性の限りなく低い、会いましょうねの応答より
どうしてますか?
私はこうです
の方がこんなにも心に軽やかに着地するのかと、心拍数こそまだ落ち着いてはいなかったが、胸はすっとした。



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やさしいさみしさたちこめる夕刻

ことばにならない思いが、ぐるぐると渦巻いている。ことばを与えないと、そのぐるぐるは消えてくれない。

ことばにすること、とは、現実にする、ということ。認め、直視し、向き合うということ。

僕が綴るのは、時にモヤモヤを、時にふわふわを、カタチにして、改めて見つめ直したいからかもしれない。

本との出合い

ATMコーナーが閉まっていたり
別所に行ったら有料時間になってたり
シャチハタが、欲しい苗字だけ売り切れてたり

本屋にたどり着いたものの『さみしい夜はペンを持て』を探しても見つからず。
店員に尋ねたところ、売り場を教えてもらえるのではなく、会計カウンターに持って来られてしまって、購入するかどうかをその場で迫られ…と想定外続きだった。

しかし
「これもなにかの縁だ」と呟いて、すぐ近くのベンチで本を開いてみたら、まえがき?だけで、自分に重なり過ぎて泣きそうになった。
だから、これらは必然だったんだと思う。

色々欲しい(気になる)本あったし、候補が複数あったけど、今回はこれで、これだけで、よかったんだと思う。
(成瀬シリーズも、カバヒコも、)


本当に本が読めるようになった。その最初の本がこれで良かったとも思う。
前は文字を追うのすら危うくて、内容を辿るなんて無理にも程があったから。

ひとり時間

思えば、ひとり時間が出来てから、調子が良くなった気がする。
最初のうちは戸惑いも不安感(心細さ?)もあって、何もできない日ばかりだったけれど。

繰り返すうちに、それが当たり前になっていくうちに、
あれやってみたり、これやる必要があったり、があって、
段々と
内容やそのバランスを取れるようになってきた。


榊と一緒にいすぎて、思考や軸が榊ベースになっていて、自分の中が混線していたのも鬱や統合失調の原因だったと思う。
(対榊のものに限らず、全ての思考や感覚が、そう言う感じになってしまっていた)


効率的かつ合理的に生産性の高い有意義なひとり時間を過ごしてはいないけれど

ただひたすらに安心材料の榊の帰りを待つしかないとか、不安に打ち勝てなくて過食に走って自己嫌悪で死んでるとか、そういうのは日に日に減った。


今日なんか、休み休みだけど、宅トレを複数メニューこなして、小さな家事を率先してこなして、夕方には本屋にまで出かけた。

ま、榊が会食で夜遅くまで不在だからこそのんびりマイペースにできたのだろうけど。
(これだって少し前まではどうしていいか分からず途方に暮れていただろうけど)

もうそれだけで達成感と自己肯定感が溢れている。

一時期は、そういう時は実家に帰って、空白を埋めてしまえばいいのかな?と思った時もあったけれど、自力でここまで来られてよかった。それもさらに僕を持ち上げてくれている。
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