何もしなくても時間は流れていく。
こんな過ごし方、もともとは性に合わないはずだが、今は本当に何も出来ない。
(じわじわとくるわ、これ)
ブラッドがいれば、一緒に読書したり、言葉はなくともコミュニケーションを交わしたり、それなりに愉しんでいる。
けれど、ブラッドがいないと成り立たないということ。
それだけを縋るように待つことには、抵抗があった。
ざりざり、ざりざり。
薔薇園の隅で、何とも無しに手元の土を掘る。
猫のくせに独りでは眠れない私には、これぐらいしか時間の潰しようもなく、最近では癖のようになってしまっていた。
土だらけになった手足を、ブラッドが微妙に嫌な顔をしつつもタオルで拭いてくれるのがちょっと小気味良いというのもあるが、全く生産性のない行為だ。
(っていうか、ブラッド来ないし)
何か立て込んでいるのだろうか、ブラッドは最近さらに訪れる頻度が減っていた。
ざりざり、ざりざり。
小さな獣の手は、どんどん土を被って黒く汚れていく。
(――この手も好きって、言っていたなぁ。)
ふと、思い出す。
もう、ずっと前のことみたいなことを。
(あれ?この手も、の『も』ってなんだっけ?)
でも、伝っていく記憶が、微かに零れていっているのも感じていた。
銀色の髪は、いっそ小憎たらしいほどに綺麗だった。
けれど、それはシルバースプーンのような色だったろうか?陽に透ける雲のような色だった?
少しだけ冷たい手で、柔らかく触れられると嬉しかった。
けれど、少しって、どれぐらいだっただろう?
子どもみたいなことも言うのに、落ち着いた大人みたいな言葉も吐く、不思議な深くて低い声も好きだった。
けれど、それは、どんな音だったろうか?
大事な記憶はどれほど手繰り寄せても、最早現実ではなくて、酷く曖昧なものに成り果てていく。
独りと、二人で過ごしてきた時間が積まれていくごとに、記憶は朧になって色みを失くしていくのだ。
ざりざり、ざりざり。
(こんなことしたって、犬じゃあるまいし‥)
どれだけ小さな手で土に穴を掘っても、その下に宝物も、ましてや異世界に連れ出すウサギも出てきたりはしない。
「‥‥こんなところにいたのか、お嬢さん」
背後から、脇の下に手を入れて抱きあげられて、身体がびくりと震えた。
ひっくり返され正面を向かされると、また真っ黒にした手をみてピクリと片眉をあげるブラッドと目が合う。
(たいてい地面に手足つけてるんだから、そんな変わらないでしょうに。)
ここに来て、改めて知ったこと。
ブラッドは結構綺麗好きだ。
一度、薔薇園のテーブルの上に乗ったら、「君でなければ、撃ち殺しているところだ」と低い声で凄まれ、肝を冷やした。
一応、自分の名誉の為に付けくわえさせてもらうと、そのときはお茶会や食事中だった訳ではないのだが、それでも彼には許せなかったらしい。
そして、ベッドで眠るときや、こうやって手足が汚れたときには、こまめに濡れタオルで拭いてくれる。
(猫飼ったこと、なかったんだろうなぁ‥)
そんなことを思いながら、されるがまま、手足を拭いてもらい、抱きあげられる。
連れて来られた園内のテーブルには、すでにティーセットが準備されていた。
「さあ、お茶会をしようか、お嬢さん」
「みゃ」
(いいわよ)
言いつつ彼は、自分の膝に私を乗せる。
そして、お気に入りのティーカップに注がれた紅茶を一口口にして、ほうと息をついた。
「それにしても、猫と遊ぶのもなかなか楽しいものだが、このお茶の時間だけは物足りないな。」
(まあ、私はテーブルに着くことすら叶いませんからね。)
言葉に出せない悪態を思いつつ、ブラッドのお腹の辺りにぐりぐりと頭を撫でつけてから、顔をあげる。
「みゃあ、にゃぁー」
(あなたなら、別に独りでもお茶を楽しむでしょう?)
「ん?
ああ、もちろん十分楽しめる一流の茶葉だが、やはり理解ある友人とこの素晴らしさを共有するのも格別だろう?」
「みゃぁあ」
(それは、そうね。)
人としてお茶会に招かれていた時、紅茶のうんちくを聞かされつつも、香り高いお茶を素直に喜べば、満足げに笑っていたブラッドを思い出す。
「そろそろキミとまたお茶を飲みたいものだ。」
言われながら耳を撫でられ、ただぼんやりとその感触を享受する。
一緒にお茶を飲む。
当たり前だったことが、今ではあまりにも遠いようなことのような気がして何も返すことができず、そして彼も何も言わなかった。
そうしてしばらく静かなお茶会が続くと、ふとブラッドが口を開いた。
「ああ、そうだお嬢さん、ゲームをしよう。」
「にゃ?」
(ゲーム?)
猫としてここに来てからも、チェスに付き合わされたりはしている。また、そういったゲームをしようと言っているのだろうか。
取ってつけたような提案に小首を傾げる私を、ブラッドは再び抱きかかえて立ちあがる。
上がった視界からテーブルを見下ろすと、彼の飲んでいたティーカップは空になっていた。
続いて、歩き始めた彼を見上げれば、楽しげに口角をあげている。
「そう、私が勝てば、一つ私の好きにさせてもらう。
だが、君が勝てば、一つ君の願いを叶えてあげよう。」
(え?)
付け加えられた説明は、さらに首を傾げるものだった。
わざわざそんな賭けをしなくとも、彼は今、存分に私を好きに扱っているのだから、彼が勝って何のメリットがあるのか分からない。
しかし、勝てば私の願いを聞き入れてくれるというのは、とても都合の良いチャンスのように思えた。
私は、彼の胸を叩いて身体を精一杯伸ばす。
「にゃあ?」
(何でも?)
「ああ、何でもだ。」
にやりとして、答えるブラッド。
その表情をみて、たちまち冷静になった。
(‥‥‥‥胡散臭いな。)
この男が自分のメリットなしに、タダでこんな提案をするはずがない。
そもそも、願いを叶えるだなんて、しゃべれない猫の願いを、彼がどう聞いてくれるというのだろうか。
一瞬でも期待した自分を恥じつつ、また大人しく腕に収まった。
どうやら、彼の私室に向かっているらしい。
今日は、チェスだろうか。それとも、何か別のボードゲームでも見つけてきたのだろうか。
ブラッドがどんなつもりなのか分からないけれど、それでも薔薇園で独りよりはずっと良いので、報酬には期待せずゲーム自体を楽しむことにする。
(――ん?)
部屋に通された瞬間、何か、どこかに引っかかりを感じたが、ローテーブルに置かれたチェス盤に気づいて、意識がそちらへ向かった。
「にゃあ?」
(チェスをするの?)
ずっと連敗が続いているが、今日こそは勝ってやろう。
作戦を練ろうかと思ったところで、ブラッドは、いいや、と否定の言葉を発し、私をソファへと下ろした。
「にゃ‥」
(な‥)
―――ふわり。
声を出そうとしたとき、本当に、僅かに、だった。
いつものほのかな薔薇の香りがする部屋に、ほんの微かに異なる物が混じっていて、それが鼻腔に届いた途端、身体が固まった。
(‥忘れていない、忘れていなかった。)
ソファから飛び降りて、扉に近づく。
猫足のお風呂の石鹸の匂い。
そこに、甘い、葉巻の香りが混じっていて。
でも、もし同じものを使ってる人がいたとしても、きっと嗅ぎ分けられる。
――これは、彼の匂いだ。
開けることの出来ない扉に、カリカリと爪を引っ掛ける。
匂いも、ほんの一瞬だけでもう消えかかっている。
実際応対していたであろうブラッドと、先ほどまでゆっくりお茶会をしていたのだ、とっくに帰っているに決まっている。
それでも、身体が勝手に動いていた。
話したいことがいっぱいあった。
ブラッドのところで出されるご飯は、なんだか凄く美味しかったから、今度是非購入元を聞き出しておいて欲しい。
この間読んだ本の新刊は、予想外の展開でとても面白かった。貴方も読んでみると良いと思う。
薔薇園から見える夕日は、本当にぽってり大きくて、柔らかで、でも凄くさみしくなった。
楽しいこと、発見したこと、寂しいこと、心が動くたびに、いつも伝えたい人を思い浮かべていた。
(ずっと言えなかったけど、会いたいの)
つき動かされるままに、強く、声を張り上げる。
「みゃぁぁー!!」
(ナイトメア!!)
きぃ、と扉が開いた。
動いた扉から床へ手をつけると、視界に影が落ちる。
「――‥やっと、繋がった。」
見上げた目の前に立っていたのは、いるはずの無い、けれどずっと会いたかった人だった。
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