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(今日も人多いな…)
警視庁サイバー犯罪対策課、岩月彬。
桜田門へ向かう地下鉄は、今日も通勤ラッシュで人が溢れている。
正直この混雑には飽き飽きしているが、かといって車で通勤するのも時間を気にしなければならないことを考えるとうんざりする。
「あ、っ」
「…っ大丈夫ですか?」
駅のドアが開いた瞬間、ひとりの女が人の波にぶつかられて岩月の胸元に倒れこんできた。
「あっ…ごめんなさい」
「いえ、お怪我、ないですか」
「大丈夫です。ご親切にありがとうございます。」
長く柔らかな髪の女は美しい顔立ちで、けれどどこか幼く、ぶつかった瞬間にふわりと良い香りがした。
その女は次の駅に着くと、岩月に小さな会釈をして電車を降りて行った。
(可愛いひとだな)
そういえばそんなことを思う暇もなかったような気がする。
Xデーの騒ぎから半年、一課の伊丹憲一と顔見知りになってしまったばかりにそっちからの仕事を依頼されることもしばしば。
不本意ながら仲良しだと思われていることもなんだか納得がいかない。
しかし、あの東京明和銀行の事件で伊丹と関わったことによって岩月の警察官としての意識が少しだけ動かされたのは事実。
(悪いひとじゃないんだけどな)
「良い加減にしてくださいうちにはうちの仕事があるんですよ伊丹さん」
「いいじゃねえかよちょっとくれえ!はやくこれ調べろ、今日中だ!」
伊丹と庁内の廊下を歩きながら、胸に一枚のディスクを押し付けられる。
岩月はそのとき、あることに気がついた。
伊丹の指には指輪がない。
この伊丹憲一という男が既婚者かどうかだなんて全くもって興味がなかったが、指輪がないということは未婚だということだろう。
そこに妙に納得してしまう岩月。
この一年弱の付き合いで、伊丹が仕事馬鹿であることは判明したし、そもそも伊丹が女を連れて歩いているところなど想像できない。
そんなことを考えながら、エレベーターに乗り込んだ。
「おい何さっきから無視してんだこのやろう」
「いえ別に」
「なんだよその目は」
岩月は小さくため息をついて、伊丹の手からディスクを受け取った。
「いつもそんなに眉間にしわ寄せてて疲れませんか。」
「はあ?うるせえなこういう顔なんだよ」
「プライベートでもそんなだと女性にもてませんよ」
「余計な御世話だよ!」
「そういえば聞いたことありませんでしたけど、伊丹さんってご結婚されてるんですか?」
「な、なんだよいきなり…してねえよ」
チーン、というエレベーターの音とともに「でしょうね」と憐れみの笑顔を見せて岩月は歩き出した。
伊丹は一つ舌打ちをして岩月を追いかけた。
「恋人でも作ればもう少しその顔もましになるんじゃないですか?」
「はあ?なめてんのかてめえ」
岩月が突然立ち止まり、伊丹は驚いた。
振り返り、尋ねる。
「もしかして恋人いるんですか?」
「…い、いたら悪いかよ…」
「いえ別に。ここ半年で一番の驚きですけど。」
そう言ってまたサイバー課にむけて歩き出した。
「むかつくなてめえはよ…」
(そうか、伊丹刑事にすら彼女が)
岩月は自分の彼女遍歴を思い返そうとしたが、大学時代にまで遡ってしまったため一瞬でそれをやめた。
「おいお前人のこと聞いて自分のことは言わねえ気か」
「僕と恋愛の話がしたいんですか?時間の無駄ですね。ちなみに僕に彼女はいません。」
「自分から聞いてきたんだろうが…とにかく!その解析終わったら連絡よこせ!」
「わかりました。今日中ですね。」
「わかってんじゃねえか。よろしくな」
サイバー課に戻ると、小田切が隣に座った岩月に気が付き言った。
「相変わらず仲良しですね」
「え?」
「伊丹刑事と岩月さん」
「冗談よしてください、本当に不本意です」
「結構いいコンビだと思いますよ」
「あまり嬉しくないですね」
岩月は小さなため息をついて、伊丹から預かったディスクをPCに入れた。
その夕方、解析したデータを伊丹に渡し、日もすっかり暮れた20時半頃のこと。
退庁の準備を整え、岩月はサイバー課を後にした。
警視庁を出たところに、見覚えのある長い髪の女性が立っている。
(あれ…あのひと…)
岩月がそばに近寄ると、その女は気配に気づき振り返った。
朝と変わらぬその優しい香りが、岩月に確信させた。
「あ、あなた朝の…」
「あっ、今朝はどうもありがとうございました」
女はぺこりとお辞儀をした。
「いえ、とんでもないです。」
「警察の方、だったんですね…?」
「あ、ええ、まあ…あなたは?」
「わたしはひとを待っているんです」
その女はにっこりと笑う。
「すごい偶然ですね。」
「ええ、本当に。」
岩月は偶然その女に会えたことと、その女の可憐さが朝の人混みの錯覚でなかったことに驚いた。年齢はおそらく自分と同じくらいだろうか。
ついそんなことを考えてしまうが、ひとを待っているということは男の可能性もなきにしもあらず。
「あ、では僕はこれで…」
岩月が背を向けようとしたその時だった。
「岩月?何やってんだ?」
「あ、伊丹さん」
目の前の女は自分の向こうにいる伊丹の名前を呼び、にっこりと微笑んだ。
「え?もしかして待ってるひとって…」
「伊丹さんと、お知り合いなんですか?」
「おい待て、なんで岩月と古谷間が知り合いなんだ?」
しばしの沈黙の後、岩月が伊丹に尋ねた。
「もしかして、伊丹さんの…」
「だから、いるって言ったろうが。」
その女、もとい深希はそのふたりの様子を見てピンときたようだった。
「あ、もしかして、岩月さんって…サイバー課の?」
「え?はい、サイバー犯罪対策課の岩月です。」
「やっぱり。伊丹さんがお世話になってます。」
深希はまた頭を下げ、にっこりと笑う。
岩月はどうも、と頭を下げた。
伊丹さんから聞いてます、と深希が言うと、伊丹は恥ずかしそうに目を逸らした。
そしてあたまにはてなを浮かべる伊丹に、ふたりは今朝の出来事を話した。
「世界って狭いですね。」
深希が岩月に言う。
「いや僕もびっくりしました。」
「俺だってびっくりしたよ…」
「岩月さん」
深希はあたらめて岩月に向き直った。
「はい?」
「これからも伊丹さんを宜しくお願いします。」
「あ、はい。」
「古谷間、こっちがよろしくされてんだっての」
「いえ、絶対にこっちですよ伊丹さん。今日だってよろしくしてきたのはそっちじゃないですか」
「う、うるせえ!」
そのふたりの様子を見て深希は
「仲良しなんですね」
と笑った。
翌朝、ばったり桜田門前で会った伊丹と岩月。
「…おはようございます」
「おう、おはよう」
ふたり一緒にエレベーターへと向かう。
「ついてこないでくださいよ」
「ばーか一課もこっちなんだよ誰がついて行くか」
「はあ…謎です」
「あ?」
「あんな可愛らしい女性が伊丹さんの彼女だなんて、警視庁最大の謎です」
「てめえ…」
颯爽とエレベーターに乗り込む岩月の後について乗り込む伊丹。
「で、どうやって落としたんですか?」
「んなこと知るか」
「付き合ってるのにそれはないでしょう」
「いろいろあったんだよ」
「そうですか」
「自分で聞いたのに興味なさすぎだろおい!」
「興味ありますよミジンコ程度ですけど」
「ミジンコて…」
「でも、なんとなくわかります」
「なにがだよ」
「彼女、深希さんでしたっけ。」
「ああ」
「伊丹さんと付き合えるだけのでかい器は持ってそうでしたから。」
それでは、と言って岩月はエレベーターを降りて行った。
「……ん?褒めてんのか?それ…」
(普通じゃあんな仕事馬鹿と付き合えないもんな)