それは蒸し暑い八月の事。
真夏の照り付ける日差しは、ビルの窓に反射し鋭い光となって降り注いでいた。
ニューヨークの片隅、古ぼけた赤褐色のビルの二階にあるJF事務所では、あまりの暑さに所長、パトリックがうず高く積まれた書類の上に魂が抜けたように突っ伏していた。
夏は焼け付くような日差し。冬は身を切るような寒波。ニューヨークはそんな場所なので、真夏の、それも真昼では虚脱感に襲われるのも無理はない。
パトリックは空になったコップをくるくると回し、溜息をついた。
「暑い。暑すぎる。
ニューヨークは年々暑くなっているんじゃないかい?十年前はもっと涼しかったはずだよ」
所員である金髪の青年、ジョンは見つめていたパソコンのモニターから目を離しパトリックを一瞥すると、
「十年前はもっと痩せてたよね」
的確に、冷静にそう答えた。
最新機種のパソコンをさらりと使いこなして、事務所に舞い込んでくる数々の仕事を片付けるのはジョンの役割。
パトリックはといえば、ハンバーガーを食べているか、スナックを食べながら騒いでいるか。
何かを常に食べているため、彼は貫禄のあるでっぷりとしたお腹とぽっちゃりとした優しげな顔である。
反論の余地も無く、ジョンはうー、と唸るとそのまま黙った。
パトリックとジョンしかいない、書類だらけの事務所にはジョンがキーボードを叩く音と、健気に働くエアコンのモーター音が響くだけで、その静けさは、じっとりとした生暖かい風と相まって、益々パトリックの生気を奪っていた。
「暑いなあ……」
「暑いなあ……」
おかっぱ頭の少女はそう呟いた。
そうしてから、辺りをもう一度見回した。
高い建物。自分とは話す言葉が違う、背の高い人々。通りすぎる、知っているタイプとまったく違う車。
何もかもが、さっきまでいた場所と違っていた。
「どこかなあ、ここ」
瞳に涙が浮かび、ぽろぽろと零れた。
彼女はほんの数分前まで、友達とかくれんぼをして遊んでいた。
野原で。あるのは木や土管やありとあらゆる、馴れ親しんだ物達。
見つからないように、と前だけ見ていて、足元に注意が及ばなかったのがいけなかったのだろう。
うっかり転んでしまった。目をあげた時にはもう、彼女が知っている景色ではなかった。
「あっちゃんみいちゃんさとすず、どこ?」
遊び友達の名前を、無駄だとは分かっていながらも呼んだ。
行き交う人々は、道の真ん中で泣いている少女をちらりと見遣るだけで通りすぎて行く。
少女は心細くなって、
「お母ちゃあん!」
そう叫んだ。
中国人かな、というのが第一印象だった。
アフリカの小さな国で生まれたスーザンにとって、アジア系の人間は皆同じに見える。
中国人と韓国人、日本人は区別がつかない程だ。
少女をまじまじと見つめ、どちらだろうと考えた結果、切れ長の目から中国人ではないか、と結論づけた。ところが少女は中国語ではない言葉で叫び、スーザンの思考は初めに戻ってしまった。
同僚のジョンからはお人よし、上司のパトリックからは良い子、という評価をうけているスーザンは、面倒事に関わらない、という事を固く心に決めていた。
彼は実際、お人よしでも良い子でもないのだが、目の前の困っているだろう人に手を貸さないでいると神は快く思わないのではないか、という信心深さが彼を善行へと導いている。
冷静な頭と信仰心の狭間で悩んだが、未だに泣き止まないか細い少女を見て信仰心が打ち勝った。
「ジョンに怒られるなあ」