朝、自分の部屋で出掛ける支度をしていると、突如として机の引き出しが、ガタ―ン!と開いたかと思うと、丸っこい体型の変なオジサンが飛び出してきた。
呆気に取られている私にオジサンは言った。
『こんにちは!ぼく、ヅラえもんです』
そして、着ている背広の内ポケットから名刺を取り出し、私に向かって差し出した。
《心のスキマお埋めします》
‥笑ゥせぇるすマンですか?
『あ、間違えた!こっちですこっち』
机から飛び出したオジサンは、慌てて別の名刺を私に渡す。
《24世紀の中小企業経営者型ロボット・ヅラえもん》
私は思わず口に出していた。
「ドラえもんなら知ってますが‥」
するとオジサンは、額から流れ出す汗を袖口拭きながら言った。
『ああ、スミマセン‥本当はその【ドラえもんさん】が来る予定だったんですけど‥ちょっと都合がつかなくて‥で、私になっちゃったんです』
「すみません、どうにも私には話がよく見えないのですが‥」
これは正直な気持ちであった。朝突然、机の引き出しの中からオジサンが飛び出して来るなど、明らかに常識の範囲を逸脱した出来事と云えるだろう。
『話が見えない…ごもっともです』
その口調は紛れもなく、何とか商談を取り付けようと頑張る中小企業経営者のそれであった。
『えっと、実はですね…あなたの曾々孫にあたる【グワシさん】から“のび太と云う駄目なご先祖様をサポートして欲しい”と云う御依頼を弊社が受けましてですね…それでまあ僕が送り込まれたと、まあアバウトに云えばそんな感じでしょうか』
「なるほど、お話はよく判りました。しかし‥失礼ですが何か勘違いされてませんか?子孫の名前など知る由もありませんが、少なくとも私の名前は【のび太】ではありません」
するとオジサンは“えっ”と驚いたような表情で、一歩後ろに飛びのきながら言った。
『野比のび太さん‥でない?』
「武者小路清臣と云います」
『小学生‥』
「な訳ないでしょう‥私、37歳ですよ。小学生じゃない事は一目で判ると思いますが。それに大体‥何処の世界にアルマーニのスーツ着て、朝出掛ける小学生が居ると云うのですか?」
私の言葉にオジサンは少し遠い目をしながら、独り言のように呟いた。
『ああ‥あそこだ!多分、高速の出口を間違えたんだと思います』
いったいこの人は、さっきから何を言っているのだ?
流石の私もいい加減焦れったくなって来ていたので、兎に角、間違いなら間違いでさっさとお帰り頂こうと思い、笑顔を作りながらオジサンに言葉を掛けた。
「それでは、この懸案は無事に解決したと云う事で…お疲れさまでした」
これでスンナリと帰って頂ける筈であった。
ところが、【ヅラえもん】と名乗る謎のオジサンは困ったような顔をしながら、つぶらな瞳で私の顔を見つめたまま動こうとしなかった。
「えっと…まだ何か?」
するとオジサン‥いや、名前があるのだから、【ヅラえもん】と呼ぶべきか‥は、困ったような口調でこんな事を言ったのだった。
『いや、それが‥のび太さん』
「武者小路春臣です」
『あ、そうでした。間違いとはいえ、こうして来た以上、何かしら道具を出して一つでも二つでも貴方の役に立つ事をしないと、元の世界に戻れない決まりになっているのです』
ああ、何だかややこしい事になって来た。が、ヅラえもんの云う事も判らなくは無い。そういうノルマ的な規則が厳しく存在する社会は確かにあるのだ。
電話の持つ面白さの一つに、“話す人の声のトーンカーブ”の変化があると思います。
俗に『電話に出ると人は声が高くなる』と云われている現象の事です。
では、それを踏まえた上で先日の話に参りましょう…。
―――――――
何気に感じていた事なのですが、ここ数年、電話に出る時の母親の声がどんどん高くなっている気がする…。
それが、先日の夕食時、ついに“来るところまで来てしまった”ようなのです。
食事の最中に掛かって来た電話に出た母親の声は急激なトーンカーブの上昇を描いたせいで、食卓についていた私と父親はビックリして同時に箸を落としそうになりました。
本当にそれは、信じられないぐらいの声の上がり方だったのです。
もしかすると、中間の音域を飛ばして一気に【4オクターブ】ぐらい上がっていたかも知れません。
思わず私は、部屋の中に『天使にラヴソングを』のウーピー・ゴールドバーグを探してしまったくらいです。
声がもう少し若ければ、マライア・キャリーやホイットニー・ヒューストンを探していた事でしょう。
凄まじいのは、途中で一度、声が完全に裏返ってファルセット(裏声…コルセットとは違う)になっているにも関わらず、そのまま強引に突き進んだせいで更にトーンは上昇し、最後の方にはもう“何を言っているのか判らない”ぐらいの高さにまで達していた事です。
恐らくは人間の可聴音域を超え“超音波”の世界に入っていたのだと思います。
しかし、本人も流石に途中で自分の異様な状態に気付いたのでしょう…
玄関のチャイムが鳴ったので出てみると、宅配便のお兄さんが立っていた。
年の頃は二十歳そこそこに見える。見慣れない制服、そして初めて見る顔だ。
お兄さんは被っている帽子に軽く手をあてながら言った。
『お届け物です。判子かサインお願いしま〜す』
ああ…判子ね。
我が家は、対宅配業者用に常に玄関の靴箱の上に印鑑を置く事にしているので、この時も「はいはい」と軽く受け流しながら、いつもの様に荷物を受け取ろうとしたのだが……
『アイタタタタタ!…』
急に、お兄さんが自分の左肩を押さえながら苦しみ出したので、吃驚して思わず判子を落としてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
私が落とした判子を拾いながら声を掛けると、お兄さんは変わらず苦しそうな表情ながらも気丈に、
『大丈夫です、いつもの事です』
そう言いながら、私に届け物を渡そうと腕を伸ばした。が、またしても…
『アイタタタタタ!これは完全にキマシタ!』
そう言うお兄さんの顔は、苦悶の表情の中に何処か満足感のようなものが浮かんでいる。
「ど、どうしたんですか?ちょっと、本当に大丈夫ですか?」
心配して声を掛ける。どう見ても大丈夫そうには見えない。
『どうやら肩がハズれちゃったみたいです』
それは大変だ!
「えっ!‥救急車呼びましょうか?」
ところがお兄さんは、ポケットから携帯を取り出そうとする私を、歌舞伎の《暫》(しばらく)に出てくる有名なポーズで遮るとこう言った。
『いや、いつもの事なんです。うちの会社は皆、荷物を届ける時にはこうなるんです。‥だから辞められない!この感触‥好きなんです!』
このお兄さんは、いったい何を言ってるのだろう?肩がハズれて何が嬉しいと云うのだ。
私は顔をひきつらせながら、ぷるぷる震えるお兄さんの腕の中にある届け物を受け取った。
「では此処に判子かサイ…アイタタタタタっ!」
見ている私まで体の節々が痛くなってきた‥。
話題:倦怠期
人間同士が長年寄り添えば、どうしても其処には『倦怠期』が生じて来ます。
これは何も『恋人』と云う関係に限った事ではなく、友人や親子兄弟、先輩後輩と云った間柄の中にも存在すると思われます。
そしてこの時期は、総じて人に疎まれがちな傾向にある訳ですが…
果たしてそれは、そんなにも忌み嫌うべき物なのでしょうか?
話変わって、一般的な演劇の作法において必要とされる『ダレ場』なる存在があります。
これは文字通り“ダレた感じ”でだらだらと話が進んで行く舞台上の場面進行を意味する言葉です。
わざわざ大して面白くもない場面を挿入する…一見、無意味に思えるかも知れません。
しかし、この『ダレ場』があるからこそ、その前後の場面での【喜怒哀楽】や【ストーリー上の面白み】が際立って来るとも云えるのです。
もしもそれが無く、最初から最後までハイテンションな場面が続けば、演じる方も観る方も疲弊してしまいます。
音楽でも、全てのパートをフォルテで演奏してしまえば、それはもうフォルテではありません。
やはり、ある程度の長い時間を快適に過ごす為には、そこに『減り張り』(メリハリ)が必要なのだと思います。
そしてこの『−減り期間』と『+張り期間』を滑らかに繋ぐ『0』、この極めてフラットな潤滑剤的時間こそが倦怠期と呼ばれる『ゼロ時間』なのではないでしょうか?
しかしながら、困った事に此処には一つの大きな問題があるのです…