話題:のんびり
「あああ、もう少し早く来て欲しかったですね…」
デジャヴだろうか。いつか何処かでまったく同じ台詞を聞いた事があるような気がする。
近未来を彷彿とさせる白を基調とした室内。よく解らない機械や器具が冷徹な光を放っている。明度の高いショッカーのアジト。そんな印象か。そして私は、診察台という名の手術台で改造人間にされようとしている。
【ドラキュラ・デンタルクリニック】
デンタルクリニックの日本語訳は[ドリル天国]で良いだろう。
「定期検診の通知、行きませんでしたか?」
「ああ、どうだったかなあ……言われてみれば届いていたような気もしますけど……(いや、届いたのはハッキリ覚えているけれども、痛くもないのに歯医者など何処の誰が行くと言うのですか)」
「……まあ、そうですよね。出来れば来たくないですもんね」
心の声が聴こえたのだろうか。
「スミマセン。通知、来ました」
「いえいえ。では、診察台倒しますね」
有無を言わさず天井を見上げる形になる。「東京には空がない」と智恵子は言った、と詩人の高村光太郎は言った、と国語の教師は言った。が、私はこう言いたい。「歯医者の天井にこそ空がない」と。そこには無機質な灰白色の壁があるだけだ。
もっとも、歯医者の天井に空があったところであまり意味はないだろう。それでも、幾らかはリラックス出来るだろうか。それとも逆に落ち着かなくなるだろうか。
リラックス。フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド。考えてみれば今まで通ったどの歯医者も、それなりにリラックス出来る空間を院内に演出しようとしていた気がする。例えば綺麗な絵を壁にかけたり、可愛い熱帯魚の游ぐアクアリウムが置いてあったり。あと、かなりの確率でクラシック音楽や映画音楽、イージーリスリングが掛けられている。そんな印象がある。
リラックスした空間と阿鼻叫喚の治療風景。その対比で上手くバランスをとっているのだろう。これが、もし、ムンクやギーガーのおどろおどろしい絵を掛けたり、お経を流したり、お化け屋敷みたいな内装にしてしまうと其処には悲しみと痛みしかなくなってしまう。
否。雰囲気がダークに統一され、逆にアトラクションのような感じで人気が出るかも知れない。
「えーと……良いニュースと悪いニュースがありますけど、どちらから聞きたいですか?」
妄想が断ち切られる。
「悪いニュースからお願いします」
「判りました。この奥歯、神経がピョコンと飛び出しちゃってます。これ、神経全部抜かないとダメですね。で、中で神経がだいぶ細くなってるんで、探して抜くのちょっと手間取るかも知れません。と言うか、よくこの状態で平気で暮らせましたね」
「え、そこまで酷い感じですか?」
「です。ではちょっと麻酔かけて神経抜きますね」
「お願いします。あ、良いニュースの方は?」
「恐らく明日には今の10倍ぐらい痛くなって悶絶していたと思うので、今日来られたのは本当に幸運でした」
思わず背筋(せすじ。はいきんと読まないように)がゾッとする。危なかった。カレーのLEEの10倍はむしろ歓迎だけれども、歯痛の10倍は勘弁して欲しい。
それにしても、いったい何故、この世に歯痛などというものが存在するのだろう?
言う迄もなくそれは、歯が存在するから。と言う事は、つまり、歯さえ無ければ歯痛に苦しむ事も無くなる訳だ。
よし、今度生まれ変わる時は歯のない生物にしよう。アメーバとかミドリムシとか、或いは、歯のないタイプの宇宙人。植物という手もある。そう言えば、普通の人間でも“ある職業”に就くと歯という歯が全て抜け落ちてしまうらしい。それなら歯痛に苦しむ必要も無くなる。それが良いかも知れない。因みに、その職業とは……
落語家、である。
そのココロは、噺家(はなしか)=歯無しか、だから。
……とオチがついたところで、さあさあ、皆さんお待ちかね、愉快で楽しいドリルの時間、ドリリングタイムの始まりだ。
〜おしまひ〜