ソフィアが放った矢が重い音を立てて肩に深々と突き刺さったというのに、梟獣(きょうじゅう)は気にする素振りをまるで見せなかった。
そのまま振り下ろされた腕の上を跳び、目を狙って突き刺した筈の剣先が硬い皮膚に弾かれる。
一瞬触れた肩口に足を付き飛び退いて、スズトは僅かに舌打ちを零す。
「っごめん、また失敗した!」
誰ともつかない激励が飛んで、今度はスヴェンと猟犬が相手を挟むようにして飛び出していく。
梟獣が左右に気を取られる内に真ん中にはスバルが立ち塞がり、筋肉の隙間を狙って刀を突き出した。
が、それは満足なダメージを与えるには程遠く、まともな出血も無いままで。
それどころか分厚く強靭な筋肉の隙間に刀が挟まれて、引き抜こうとした所に強い抵抗を持たされてしまい。
まずい、とスバルが思ったのも束の間に、間合いの内に居るスバルに梟獣の片手が伸びる。
「うぁッ……!」
間一髪でかわした、と思われたが。
翻っていた長い髪が梟獣の爪の先に絡め取られて、予想外だった衝撃に姿勢を崩したスバルの身体が持ち上がる。
首をぐるりと回しながら覗き込む梟獣の目がスバルを映して、思わず怯えに息を呑む獲物の姿に目を光らせている。
「スバルッ!!」
ざん、と草を刈るのにもよく似た音が響いてスバルの身体が地面に落ちた。
惑いこそは残っているものの、身体が自由を取り戻したその瞬間にはスバルは反射的に飛び退いて敵から距離を取っていた。
スバルの髪を掴んでいた筈の梟獣の手には確かに金糸にも似たそれが未だ大量に絡んでいて、髪の滑らかさに取り落としたわけではないと知る。
後ろに下がったスバルと入れ替わるように鎌を携えたシキが低い姿勢で飛び出し、スバルの刀を持ったスヴェンが駆け寄って来た。
「すまない、あれしか方法が思いつかなかった」
バツが悪そうに零しながら、スヴェンが刀を差し出す。
幾分か軽くなった後頭部の感覚を確かめるようにスバルが手を伸ばすと、やはり髪の毛が襟足の先辺りからバッサリと切り落とされていた。
スヴェンが梟獣の身体から取り返した刀で咄嗟に髪を切り離し、自らを救った事をスバルは即座に理解して。
「気にするな。安いものだ」
礼の言葉を付け足しながら、スヴェンから刀を受け取る。
同じパターンに陥れば次は無い。
一瞬ながらも確かにあった死の危険に人知れず滲んでいた冷や汗を雑に拭い去り、スバルはスヴェンと顔を見合わせ、合図も無く同時に戦線に駆け出した。
戦況は五分五分、だと全員思っていたかった。
だが徐々に上がる息や削れていく体力のペースが、明らかにこちらの方が早い。
限界を先に迎えてしまうのも恐らくはこちらだと、口に出さずとも此処にいる全員が痛感していた。
「逃げ、ましょうか。口惜しいですけど」
大鎌の柄を支えに立ち上がったシキが、スヴェンに最後のメディカを投げ渡す。躊躇い無く飲み干した。
「ソフィアさん、スヴェンさん。ワンちゃんと一緒にアイツの足止めをお願いします。スズトさんはその間、引き付けて」
異を唱える者はいない。自分よりも手酷く傷ついた仲間を守るようにシキの傍に立つソフィアも静かに頷く。
自らもズタボロだというのにシキの額から流れる血液を優先して止めようと舐めていた猟犬も、了承するかのように小さく鳴いた。
比較的、呼吸に余裕を残しているスズトが率先して飛び出した。
わざと梟獣の視界に居座り続け、自らに振り下ろされる爪を、腕をリズムよく飛び跳ねるように避け続ける。
既に討伐という考えは頭にない。回避に集中しているスズトの視界の傍らを、スヴェンと猟犬が駆けていく。
「……今ッ!!」
歯を食い縛って限界まで弦を引いていたソフィアの矢が、風を切る音を立てながら飛び、梟獣の片脚に突き刺さった。
それを合図に猟犬が脚に齧り付き、同時にスヴェンが鳩尾を狙って拳を叩き込む。
相手の姿勢を崩し、移動や回避を封じる為の手段。
だが、そのどちらもが梟獣相手には通じなかった。
梟獣がずしん、と大きな一歩を確りと踏み出して、辺りを薙ぎ払うように両腕を大きく振るう。
超至近距離に身を置いていたスヴェンと猟犬は、避ける事もかなわずに。
「スヴェンっ!!!」
弾き飛ばされた1人と1匹は、接地する事無く大きく飛んで行く。
やがて猟犬は木々の間に生える草むらの向こうへと消え、犬より重いスヴェンは一足早く高度を落として水場の縁の岩に背中を打ち付け、くの字に曲がった体がそのままゆっくりと岩を離れて、水の中へと落ちた。
安否を確認する為に自然と仲間の行く末を目で追ってしまって隙が生まれた瞬間を、相手の梟獣が見過ごしている筈は無く。
自らの足元に大きな影が落ちた事にシキが気が付いて振り返る頃には、目の前には腕を振り上げた梟獣の姿があった。
「ソフィアさ――がッ」
隣に立つソフィアを狙い振り下ろされた腕の片方に中途半端に殴り付けられたシキの頭の中で、聞いた事もない音が響く。
石同士を強く擦り合わせたようなその音は、自分の首の骨が折れた音だと。
シキは数秒後に、地に伏せたまま二度と自由の利かなくなった身体で思い知る。
「離せッ……離せ!!! よくもッ、よくもスヴェンを!! 殺すッ! 殺してやるッ、アンタだけはッ!!!」
梟獣の両腕に胴体を抱きすくめられたソフィアが憎悪の言葉を並べ立て、番える事も出来ない矢じりを拳に握り込んで目の前の梟獣の首元を怒りのままに、力任せに殴りつける。
一足先に距離を詰め終えたスズトが僅かに丸まった梟獣の背中に飛び乗って、首をめがけて剣を振り上げた。
が、ぐるんと首だけが真後ろを向き爛爛と輝く梟獣の目がスズトを捉え、恐怖に思わず竦んだスズトがそのまま足を滑らせ地面で尻餅をついた。
まだ少し距離が空いたままのスバルが刀を振り空刃を放つも、命中こそすれど、それでも羽の数枚が落ちるのみに留まってしまう。
「あ゙ッ、ぐ、」
みし、と音が響いて、ソフィアの拳が振り上げたまま強張り止まった。
その次の瞬間には倒木が周りの枝をへし折りながら倒れていくような、湿った木が容赦無く折れていくような音が何重にも聞こえて。
振り上げたままだった拳はゆっくりと高度を下げて、握り込まれていた矢じりがぽとりと地面に落ちた。
「ソフィアッ……」
未だ恐怖に尻餅をついたまま体を起こせないスズトが、震えた声でぽつりと呟く。
腕がぐんと引かれて立たされた事に驚いたスズトが振り返ると、妙に目の据わったスバルが何かを押し付けるように寄越してくる。
それは、アリアドネの糸。迷宮から脱出する為の、冒険者にとっての必需品。
「逃げろ、スズト」
空間を仕切るようにスズトと梟獣の間に入り込んで、スバルが静かに呟いた。
凡そ人間が地に落ちるような音には聞こえない水音が響いて、梟獣がゆっくりと2人の方を振り返る。
「俺が食い止めてる間に!! お前だけでも逃げろッ!!!」
スバルの怒号と同時に梟獣も吼え声を上げ、一部が赤く染まった梟獣の腕が振り下ろされて、地面が震える。
まるでそれを合図にしたかのように、スズトが哭声を上げながら駆け出した。
悲痛な泣き声と言えど、それでも確実に段々と遠ざかっていく声を背中に感じて、スバルは僅かに安堵していた。
これから辛い未来が待っている。この記憶が呪いとなり鎖となり縛り付いて、長い間苦しんでしまう事も。
それでも、だとしてもスズトには、生き延びてほしいとスバルは思っていた。
足が時折もつれて姿勢を崩しても、それでも両の手を付いてすぐ立ち上がり、スズトは走るのを止めなかった。
がつん、と背中に何か柔らかくも確かに質量を持った物がぶつかって、バランスを崩して転んでしまうまでは。
何がぶつかったのか半ば反射的に振り返ってしまえば、黒い装束に身を包んだ、銀色の髪の姿が見えて。
「シキぃっ……!」
ソフィアの攻撃に巻き込まれ、その時に地に伏してしまった仲間の1人。
既に息絶えていたと思っていたシキのその目が動いて、涙の止まらないスズトの潤んだままの瞳と目が合う。
「シキ、シキっ!? 生きてるのかッ!!?」
思わずスズトはまた駆け出そうとした踵を返して、シキの上体を抱え上げようと手を伸ばす。
しかしシキはその行動に指先一つ動かさずに、声も出なくなった唇だけを静かに動かした。
にげて、と。
「ゔぁあ゙ッ!!」
いくらかの距離を開けても確りと耳に届いたスバルの悲鳴に、スズトは弾かれたように顔を上げる。
梟獣がスバルの頭を掴み上げている。長い爪の数本は既にスバルの背中を貫き胸から生えていて、その身に血の光沢を纏っていた。
もうどんなに駆けても今からじゃあ間に合わない。それを解っていても仲間の下へ駆けたくて、スズトは一歩を踏み出しかける。
「逃げろッ!!! 俺に構うな!! 早ぐ、逃げッ……!!!」
その一歩を、限りなく張り上げて警告するスバルの声がそれ以上進まないように縫い付ける。
スズトがスバルの名前を叫ぶが返される言葉は同じものばかりで、スバルの耳がもうまともに聞こえない状態に陥ってる事を感付けてしまって。
ぱきっ、と異様な音が響く。
スバルの頭蓋にヒビが入った音だとスズトが気が付くのは、数秒後。
「ア゙っ!! や゙ぇ゙、い゙ぎっ、や゙め゙、ろ゙ッ!!! ぁ゙あ゙あ゙あ゙っ!! や゙ぇ゙え゙ぉ゙お゙オ゙オ゙あ゙ァ゙ア゙ッ!!!!」
まだ言葉として形を留めていたスバルの声が意味を成さない半狂乱の悲鳴に変わって、なりふり構わない抵抗と共に騒然たる物になる。
初めて聞く最初で最後のスバルの声色に、初めて触れる仲間達の死に、スズトはもう動く気力すら尽きていて。
「ごめんね、シキ。俺、皆を守る事も、逃げる事も、できなかった……」
けたたましく響くスバルの今際の声のその中で掻き消えて欲しそうに涙声で呟いて、脱力したままのシキの手を拾って繋ぎ、膝を抱えて震えている。
タルシスの頃に少し憧れを抱いていた城塞騎士(フォートレス)の、彼や彼女のように、皆を護る事ができなかった。
自嘲半分に自責を続ける、スズトの自分に対する怨み言が、続いていく。
なかないで、と形取ったシキの口元は、膝に顔を埋めたスズトの目には留まらない。
重い足音と羽ばたきを響かせて、スズトに猛る梟獣が詰め寄っていく。
握っていたスズトの手の力が弱まって、繋がれていたシキの手がするりと地に落ちる。
それと同時に梟獣の片手がスズトに伸びて。
梟獣の片手にこびり付き残ったままの金色の髪を、ピンク色の肉片を目の前にして、スズトは。
「スバル!」
彼と同じように頭蓋を掴まれるその瞬間まで、嬉しそうに笑っていた。
ああ、むごい。
最初の最初から希死念慮を抱き続けている自分が、一番最後まで、生きている。
早く殺して。早く、早く。皆のところへ連れて行って。
既に息絶えていると勘違いされているのか、それとも反応が見込めなさそうだからなのか。
首の骨を損傷したせいでどこも動かせず、殺される事も叶わないままに、シキはただただ無表情に涙だけを流していた。
水場へと向かったであろう梟獣が数分間ざぶざぶと音を立て、やがて水から上がって来るのが、音の情報だけを頼りに窺える。
「離せ、離せッ!! クソッ……!!」
かと思えば、聞き覚えのある声が、梟獣の足音と一緒に戻って来る。
それは、スヴェンの声だった。
動かせないシキの視界の内に僅かに映り込んだスヴェンは梟獣の片手に抱え上げられ、なんとか逃れようと拳甲を失った拳で梟獣の腕を殴り付けている。
抵抗を続けているのは上半身のみであり、下半身は抱えられるがままに力無くぶら下がっているままなのを見て、シキは何となく状況を理解した。
スヴェンも骨を損傷し、下半身を動かせなくなってしまっている事を。
ああ、じゃあ、もう、ダメだ。
改めてシキの頭の中を絶望が満たす。
その絶望がまるで伝播したかのように、目の前の光景にようやっと気が付いたスヴェンの声が引き攣った。
「あ、あ……嘘だ、ソフィア、ソフィアっ……スバル……スズト、シキ……嘘だ、そんな……、あぁ……うそだ……」
横たわる死体達の名前を口にする度、スヴェンの声から覇気と正気が失われていく。
梟獣は抵抗の止まったスヴェンの服を切り裂いて、両手で持ち直す。
宙ぶらりんなスヴェンの両脚の間にずるりと何かが姿を現したのを見て、シキは残った力を振り絞って瞼を閉じた。
残り僅かな、彼自身の矜持の為に。そして、自分自身の正気の為に。
「ひッ、やめ、やめろっ! 嫌だッ、もう、殺せよ!! 殺してくれッ!! 頼――ん゙ぎッ、い゙ぁ゙あ゙あ゙ぁぁあ゙ッ!!!」
ああ、むごい。
「い゙ゥッ、いや゙、嫌゙だッ! あ゙ぁ、ぇあ゙ッ、ア、ころして、殺゙じでぐれ゙ぇ゙エ゙ッ!! 」
狩猟の興奮を治める為の遊び道具に選ばれたスヴェンが命を擦り減らしていくのを、何もできずに。
ただただ聞き届ける事しかできない事実に、無意識にせり上がって来た吐瀉物がシキの口の端から垂れていく。
「ソフィ、ァア゙ッあ゙、っヒぐ、ゔぅ゙ッ、そふぃああぁあ……あ゙、あ゙あ゙ぁぁっ……!」
強者の縄張りであるせいで、最後のひと押しをしてくれそうな魔物も、やっては来ない。
「…………ゆる、し……っは、ぁ……お父、様。どうか……ソフィ……がっ、ぅ……ソフィア、だけは…………、……」
いっそ狂ってしまいたかった。
しんと静まり返ったこの場に、新しく草を踏む音だけが響く。
それ以外の音は、何もない。
鳥のさえずりも、草むらを揺らす魔物の気配も。
その場の時が止まっているかのように、何も。
「何を死に損なってんだ、面倒臭い」
草を踏む音が自分の頭上すぐそこで止まって、横柄な物言いの声が落ちてくる。
口を開こうとしても声は出ない。
それでも、静かにこう言った。
(ころして)
「言われなくとも」
鞘から長剣が抜かれる音、そして。
「仕切り直しだな」
力任せに振り下ろす風切り音が耳に入って、自分の首が僅かに転がった感覚がした。