話題:創作小説
七月は緩やかに日一日と過ぎてゆき、気がつけば、僕がカレー世界の住人となってから、そろそろ三週間になろうとしていた。
そんな或る日の事。
ヒヨコ豆の入力した【gdgd 8orz】の八桁により、ついに運命の扉が開かれたのだった。
報せを受けた僕がすぐさまヨガの扉に駆けつけると、そこには已に、カレー世界の仲間たち全員が集まっていた。
開け放たれたヨガの扉の向こう側は目映いばかりの白光に溢れていて、伺い知る事は出来なかったが、フォンドボー閣下の言葉を信じるなら、この扉の先には家族や学校の友達のいる元の世界が待っている事になる。
閣下『さあ、行くのじゃ』
閣下が濃厚な笑顔で僕の肩をポンと叩く。
ニンジン『どうしたの?みんな待ってるわよ』
私『うん…』
扉を開けた立役者であるヒヨコ豆は、フォンドボー閣下のマントの裾を握りしめながら僕の顔を黙って見上げている。
ヒヨコ豆は小さな頑張り屋さんの女の子で、いつしか僕とは兄妹のような関係になっていた。
私『ヒヨちゃん…』
ヒヨ『お兄ちゃん…帰っちゃうの?』
ヒヨコ豆の小さな呟きに皆がうつむく。
私『そうだ…みんなも一緒に行こうよ』
僕は思いきって云ってみた。
しかし…
ジャガ『行きたい気持ちは山々なんだが…残念ながら俺らは、そう云うわけにはいかないのさ』
ニンジン『私たちは野菜だからね〜。カレーの具として役割をまっとうするのが私たちの望みなのよ』
ナツメグ『スパイス的にも右に同じ』
私『でも…』
ニンジン『私たちがカレーになるのは、人間で云えば、インド大使館勤務になるようなものなの。凄く名誉な事なのよ』
閣下『その通りじゃ。だが、君は人間。人として人と出逢い、人として人に迷い、人として赤いキツネを食べ、人として若い頃は変な長髪にし、人としてハンガーをヌンチャク代わりに使い、人として浅野温子と恋人役を演じ、人として“僕は死にましぇぇぇん!”と云い、人として江戸時代にタイムスリップしたした南方仁を助けてペニシリンを培養しなければならんのじゃ。さあ、行くがよい』
私『ごめんなさい…何を云いたいのかさっぱり判りません』
ニンジン『ごめんねぇ。閣下、ときどき暴走するのよ』
ジャガ『ま、どうしても気になるってぇのなら…“武田鉄矢 Wikipedia”でググればいいと思うぞ』
ニンジン『でも…ケンちゃんも本当は判ってるんでしょう?閣下が何を云いたかったのか』
私『……』
もちろん判っていた。
でも僕は、カレー世界の仲間たちと別れたくなかったのだ。
【ヨガの扉】が開かれた事は、当然、外側の世界…つまり、学校の皆にも伝えられ、僕(カレー皿)の周りには多くの人たちが集まり、固唾を飲みながら事の成り行きを見守っていた。
ジャガ『ほら、みんな待ってるぞ』
ニンジン『寂しいけどさ、やっぱりケンちゃんは戻るべきだと思うの』
ジャガイモとニンジンの言葉にヒヨコ豆がうなづく。小さな瞳に涙をいっぱい溜めながら…。
閣下『さあ、行くがよい…さらばだ、夏の少年よ』
どうやら、その時がきたようであった。
私『みんな…今までありがとう。僕、忘れないよ…カレーの中で出逢った素敵な友だちの事…』
閣下『では皆で、チャゲアスの【SAY YES】を歌って少年を送り出そうではないか』
そして、カレー世界の仲間たち全員の歌声に背中を押されながら、僕は光溢れる【ヨガの扉】へゆっくりと歩きだしたのだった…。
よけいな
ものなどないよね♪
ああ♪
すべてが君と
フォンドボー♪
……それは、チャゲアスの替え歌で、しかも親父ギャグだった。
どうやら閣下は、ただ単にこれがやりたかっただけらしい。
【ヨガの扉】の光りに包まれながら振り返る。閣下…ジャガさん…ニンジンさん…ヒヨちゃん…ありがとう…。
閣下『少年よ、一つだけ我らの願いを聞いてくれ』
背後からフォンドボー閣下のコク深い声がした。
閣下『このライスカレーは君に食べて貰いたい…それが、ここにいる全員の願いなのじゃ』
僕は足を止め、振り返って小さく頷いた後、未練を立ち切るように目を瞑りながら【ヨガの扉】を潜り抜けたのだった…。
ーーーーーーー
気がつくと、僕は教室の自分の席に座っていた。
いつもの教室。見慣れた仲間、見慣れた風景。でも、それはどこか新鮮に思えた。
少し戸惑いながらキョロキョロと辺りを見回す僕に、隣の席の三ノ宮祐規子が小さく『おかえり♪』と云いながら、一冊のノートを差しだした。どうやら彼女は、僕に代わって授業をノートにとってくれていたらしい。
そして昼…
閣下との約束通り僕は、仲間たちと過ごしたライスカレーを食べ……お腹をこわした。
無理もない。夏の日中、三週間近くも常温で置かれていたのだ。
結局僕はその夏休みをまるまる棒にふり、楽しみにしていたラヂオ体操にも一度も参加する事が出来なかった。
それでも…
あの夏。僕はとても多くの大切な事を学んだような気がする。
八月の終わり、退院の日。
病室で観た最後のテレビ番組は、奇遇にもディック・ミネ特集だった。
すべてはディック・ミネの蝶ネクタイから始まり、ディック・ミネの蝶ネクタイで終わった。
僕は決して忘れないだろう。
あの、なんともコク深い、ライスカレーの夏の日を…。
《終》
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【エピローグ】
あ、そうそう…。
あれから二十年後の夏…つまり、去年の夏。
僕と三ノ宮祐規子は同窓会で再会し、半年後に結婚をした。
そう、イタズラっ子のケチャップ攻撃から僕を守ってくれた、学級委員の三ノ宮祐規子だ。
そして、今でも時々、僕が口元にケチャップを付けていたりすると
ニヤニヤしながら、こんな事を云ってくるのだ。
『子供みたいに口にケチャップなんか付けてると、ハヤシライスになっちゃうぞ♪』
《完》。