忘れるのって、怖いよね。
それを知っていたって、思い出すことすらなければ、いいんだけど。
忘れているってことだけ、わかって。
その先が思い出せなくなるのが、時折とても怖くなる。
なんで人って、大好きなもののことでも忘れてしまうんだろう。
忘れたほうが楽なこともあるから?
あんなに大好きだったのに。
あの頃とはもう違うんだよ。



自分が生きるために、大切な人との思い出も、忘れようとしてしまったことに気づいた。
大切なのに。
もう会えない人だと知るのが怖くて、考えないようにしていた自覚もあるんだ。
たった一つ、その人が存在していた証拠として、手作りのロザリオだけが手元に残った。それを持っているのは、その人が生きていた証拠であり、不在の証明でもある。
温かった。
公園にいつも迎えに来てくれる。
俺を抱きしめてくれる、温かい腕。
決まった日に、一緒にお祈りに行った。
あの人は、何を祈っていたんだろう。


忘れることは罪ではない。
そうやって優しく先生は抱きしめてくれた。
生きる続けるために必要なのだから、と。






ーー記憶を呼び覚ます手がかりに、思い出の物や場所がありますーー

俺には、母さんがいた。
本当は血がつながっていない、叔母さんだったけど、最後までその事を本人から聞くことはなかった。
写真も手元に残っていないのは、見ることで、当時の悲嘆が蘇らないかと危惧した人たちが、手元に残すことをやめたらしい。
本当のところはよくわからないけど。
当時の事はよく覚えいない。ずっと泣いていた。
どうやって生きていたかすら思い出せない。
ただ、いつもいた存在に、もう永劫会えることがないっていうのが、よくわかっていなかったんだ。
帰るべき場所が、そうではなくなった。
別の場所が、新しく帰る場所。
言葉では理解しているつもりだった。


映画のオーディションに受かって、なんとそれは俺たちの先輩、寿嶺二……レイちゃんの弟役。
すごく嬉しかったし、緊張もした。
撮影が進むに連れ、夢を持って家を出ていった兄と、俺の役……兄の帰りを待ち、家を支える弟。俺以外にも弟がいて、なんだか施設の頃を思い出していた。
撮影現場でも、学校の話とか、そんなに歳が離れているわけじゃないけど、新鮮だった。
だけど、そのシーンの撮影が近づくにつれ、忘れていることがあることに気づく。
今では台本を読むのも苦しい。
病院、息を引き取った母親。
なんでなのか、思い出せているはずなのに、頭が思うように、思考しない。
思い出さなければいけないのに、眼の前の扉の開け方がよくわからない。
何の変哲もない、白地に、シルバーの取っ手のついた、無機質な扉。



そこに行けば思い出せるかもしれないと思った。
思い出さなくなる時間が増えていることに気づいて、大切に思っていた感覚だけが残っている。そんなものなのか。
大好きだと思っていた漫画の内容が思い出せなくなったり、中学校の頃の最初に声をかけたあいつの名前。
笑い方を忘れたり。
そんなものなの?
大好きなものを思い出せなくなること。
いつか音楽を忘れてしまうのではないかという、恐怖。


あの頃に戻りたいなんて、そんな事めったに思わない。
いつも前だけ見て走ってきた。
ちがう、戻りたいわけじゃない。
また繰り返すなんて、いやだ。
知りたいんだ。
閉じてしまった扉の向こう側の開け方が分からなくて。
この扉の開け方を、見つけなくちゃいけない。
そんな焦燥感。
なにかが見つかるかもしれない。
「開け」
それを開ける鍵が見つからなくて、鍵の在り処を、探さなくては。
「開かなきゃ駄目なんだよ」




記憶の中と随分変わった町並みに、あまり懐かしさは覚えない。
東京といえど、郊外にあったその家は、庭に花がいつも咲き誇っていた。
モッコウバラ、チューリップ。水仙に、ノウゼンカズラ、桔梗。
夏の庭は、ひまわり。


みちみちにわずかに残る、小さな面影にあの頃の記憶をたどる。
冒険した小道は、きれいに整えられ、白地の四角い建物が目立つ。
焦燥。
今となっては、何故一度もここに来ようと思わなかったのかが、不思議なくらいだ。
思い出の詰まった場所なんだから、会いたくなればここに来ればよかったのに。
額に嫌な汗がつたう。
夏の盛り。空からは遮ることのない日差しが焼き付ける。
蜃気楼の中に佇む、あいつ。
ドッペルゲンガーがいう。
『いなくなったことを確かめに?』
早く。あの庭を見たい。
もしかしたら、もう別の人が暮らしているのかもしれない、なんて今は考えられなかった。
あの日のまま、きっとそこにある。
ひまわりはきっと。
よくお世話になったスーパーがあった場所には、事務所になっていた。
はじめて一人で買い物に行った場所だった、はず。
何を買ったか思い出せないけど、そんな記憶がおぼろげに残る。


「ここ、なの?」
呆然と見上げた。
そこには、小さな病院が建っていた。
本当にこの場所か。
スマホに住所を入れると、たしかに今の位置を示す。
どこか祈っていたのだ。
ここに来れば、扉が開かれると。
どこかで信じていた。
母さんと暮らしていた場所は、欠片も、残っていない。
どこにも、ひまわりの花は咲いていなかった。
鍵は、なかった。



どうやって帰ってきたのか、定かではない。
気がつけば、マスターコースで生活している部屋の、扉の前にいた。
扉を開く時、いつも、どこか心の底で一抹の不安と、伽藍堂の乾いた音が蘇る。
開いたその先、それでも光の集うステージに飛び出る時は、ドキドキして、待っていられないくらいだったのに。その気持が思い出せない。
ずっとこんなんだ。思い出せなくなってばかり。
眼の前にずっと、扉があって、その扉に合う鍵を探し続けている。
こんなことばかり、思い出しても仕方ないのに。


「おかえりなさい」

あれ?
「だだい、ま」
あれ?なんでだろう。視界がクリアになる。
帰ってきても、『ただいま』っていうのは、ずっと続けている。
例え、それに答えがなくても。
声の主。同じ部屋で過ごしている一人。トキヤ。
入れたばかりのコーヒーの香りが、鼻孔をくすぐる。
ブラックは苦手だけど、淹れたてのこの香りは好きなんだ。
そうか、開いた扉の先に、誰かが『おかえり』といってくれる。
それは、魂が帰る音のようだ。
今日の一瞬で、この場所も忘れてしまっていたのか?
安心したのもつかの間、ゾッと指先まで凍る。
「レイちゃんは?」
「まだ仕事で、今日のうちには帰ってこられないんじゃないですか?」
「そっ、か」
ひっぱりだこだもんね。
一つ一つ、ここでの暮らしを思い出す。
なんて恐ろしい。戻ろうと願えば、今を忘れてしまう。

「どうしたんです?最近のあなたは、柄にもなく落ち込んでいるようですよ」
「柄にって……楽しく笑ってないと、やっぱり俺らしくない?」
トキヤの答えはない。
言葉が帰ってこないことが、肯定のように思えて、ひどく苛立つ。ノイズが頭の中に鳴り響いてうるさいんだ。
そんなの、人に答えを求めることでもないのに。
沈黙も言葉、なんて言うけど、今がまさにそう。
この間に頭の中を洪水のように後悔と苛立ちと悲しみが、形にならない、ぐにゃぐにゃな言葉であふれる。
嫌なことを聞いてごめんね、って言えばいい。
でもさ、知りたい。
笑っている俺が、一十木音也なら、笑ってない俺に、名前はあるの?

「人は、笑いたくなくても、笑うことがことができますよ」
かつて、自分がそうだったように。そうトキヤはいう。
トキヤはHAYATOの時代に、それは知っている。
でも、HAYATOの笑顔には、どこかトキヤの本質があったように思った。だって、トキヤは自然に笑う時、とても楽しそうだもんね。
俺と一緒にいて、笑ったことなんてほんの一握りだけ。
遠くで。画面越しで。ほんの時折、そばで。

「ねえ、トキヤ。笑ってみてよ」
どんなふうに、俺がどんなふうに笑っていたか、さ。
「……少し、待ってくださいね」
コーヒーを置くと、まっすぐこちらを向いた。
トキヤの瞳にはきっとひどい顔の男が写っているんだろう。
それがどこか悔しい。
そんな姿、トキヤに見られたくはないのにな。

笑った。
とてもきれいで、それが演技なら、やっぱりトキヤは凄いや。
でも、そんな表情、俺っぽくないよ。
それはトキヤの、笑顔じゃん。
俺っぽくないって、自分の笑い顔すら思い出せないのに、何いってんの。
ああそうか。俺、自分がどんなふうに笑ってるのか、あんまり気にしたことなかったか。

スッともとに戻る。
少し気まずそうにトキヤは、目をそらしたけど、今度はあえて作ってます、って笑顔をした。
でも、俺よりは全然、笑えている。
「口角を上げるだけでも、笑顔を作ることはできます。それに、エンドルフィンは、治癒効果があると医学的に立証されています。痛みを和らげてくれる。作り笑いだろうとなんだろうと、体には関係ありません。筋肉の動きが、その分泌を行い、効果を出すのですから」
ウイスキー。そうやって急にお酒の名前言って何かと思えば、そういうと、必然口角があがるらしい。
「少なくとも、その一瞬だけは、心のストレスを軽減させることができるはずです。身体の仕組みを覚えていけば、すくなくとも抜け出せる道はあるかもしれませんよ」
まるで自分にも言い聞かせているようだ。
今は理屈を聞きたいわけではないけど、それがトキヤなりの慰めだということだけは、わかった。

「あなたには、抜け出せる方法がありましたね。これは、私が教えられる、抜け出せる方法ですよ」

『抜け出せるよ』
いつかトキヤに言った言葉だ。
あの頃は知らなかったけど、一人でいたいと言いながら、一人で苦しむトキヤに、なにかをあげたくて。
ひとりはいつまでもひとりで。
眼の前のことに一生懸命になって、騒いでいるうちに忘れられる。
俺がわかるやり方が、トキヤにも当てはまるかわからなかったけど、それがなにかの糸口になれば、きっと苦しい顔が和らぐ。あのときはそう思っていた。

「やってみなさい。口角を上げて。笑顔は作れるんです」
「そう、だよね」
でもそんな哀しいこと言わないでよ。
あの一握りの、隣で見た笑顔はさ、きっと心が咲かせたものだと信じてる。
トキヤは乗り越えてきたんだ。
俺も、扉をいくつも開いてきた。
人はいつか抜け出せる。
きっと、鍵が見つかれば、扉は開くのだ。
やってみなさいって、言葉は強制的なのに、優しいから。どうして。
大丈夫だよ。
おれは、大丈夫。
だけど。
「うまくできないや」
これじゃ役者としても失格だな。
でも、トキヤは待ってくれている。
せっかく淹れたコーヒーに口をつけず。
俺が、笑うことを。
口角を持ち上げるだけのことが、どうしてできないんだろう。口の端が震える。今すごく情けない姿見られてる。
トキヤは、いつも俺を瞳に入れてくれている。
せめて、トキヤの目の中では、ライバルとして、誇れる自分でありたい。
ふと、思い出した。
口の端に指を当てる。
昔、何度かやったことがあるっけ。
カンちゃんが、俺のほっぺたを引っばって、やってくれたっけ?
そうだ、どんな笑顔も、その時できる精一杯なら、それは笑顔なんだって。
俺にできるのは、今はこれが精一杯。
きっと、ずっと、思うよりいびつな顔だろうけど。
「そうですか」
トキヤは一瞬目を見開いたけど、
「そうですね……100点満点でいうなら、7点くらいですが、ないよりマシです」
すっと手が伸びてきて、鼻をつままれた。
意図がわからなくて、俺は自分の指で口角を上げて、トキヤには鼻をつままれて。どんな状況なんだろう。

でも、まどろみの庭が、蜃気楼のように、思考からどんどん遠ざかる。
垣間見たトキヤが、小さく困ったように笑っている。
いつかの昔、ステンドグラスか映し出した陽だまりの絵に似ていた。
「今日はゆっくり休みなさい」
そういってトキヤはコーヒーを片手に、ベランダに出ていく。
つままれていた部分は、指先の感触だけが残っている。己に触れる誰がいる。そこにいる。
ひとりではないことが、肌を通して感じる。
ああ、久しぶりだね、この感覚。
胸元のロザリオを、服の上からギュッと握る。
銅の十字が、心臓の音を聞いている。




白く無機質な扉の、縦についたシルバーの取手。
リノリウムの床に差し込む光。
祈るようにその扉を、開く。
扉の向こうにはきっと、また別の扉があるのだろう。
けれど。その先を、知りたいと思う心が、また鍵を探し続ける。






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debutの時のことは未だに消化しきれていません。
どこまでが遺品として残っているのか。ゲームでは形見のロザリオ。アニメではひまわり畑の写真?
叔母さんの写真を見返すことができるのかどうか、遺品についてのことを考えていました。
「春の話」でも、上げましたが、記憶の遭った家がなくなっているエピソードがしんどいです。
病院のシーンは、PTSDとして扱われるものではないかと思いました。
また、口の端に指を当てて笑うのは映画『散り逝く花』がもとです。トキヤはその映画知っていると良いな。
「抜け出せる」のお話は、トキヤのRepeatメモリアル
『私の中のHAYATO』のくだりをこねこね。