ライルの墓参り小話。
冒頭の台詞は『死/神/の/精/度』で言っていた気がします。
「あなたが来る時はいつも雨」
「そうだっけ…?ああ、そうだったかな。そういえばいつも傘を持っているか。何で知ってるんだい?」
「私もそうだから」
少し大人びた口調の少女はそう言って、くるくると傘を回す。表情こそ傘で見えないもののその動作は歳相応に幼い。
雨で霞む草原を埋め尽くすのは立石と十字架だ。その場所にライル・ディランディが足を運ぶようになってからもう15年は経つ。
傍らに立つ少女の言うとおり、確かにこの場所を晴れた空の下で見た記憶はわずかばかりだ、いつも黒い傘と、母の好きなカサブランカだけを持って此処に来ている。父の誕生日も、妹の時も、そして命日である日にも変わらずカサブランカなのは、それぞれの好きな花なんて知らないからだ。
「晴れた日には来ないの?」
「うーん…」
少し傾けた傘の下から少女は顔を覗かせた。真っすぐにライルを見つめる瞳にぶつかり答えに詰まる。じゃあ君は?なんて質問に質問で返すのはあまりにも大人気ない。この少女も「そう」だと言ったならば墓参りの相手は自分と同じ理由で失ったのだろう。この場所には15年前のテロの被害者が多く埋葬されている。都市部とは程遠い緑の広がる草原の中程が墓地として選ばれたのも、喧騒とは程遠い静かな場所でゆっくりと。崩れゆく爆音が最期の時を占めたなら、せめてこの静かな大地で眠って欲しい。そう祈りを込めている。
本当に、静かな所だ。
ライルは目を閉じて傘を打つ雨の音に耳を傾ける。今ならまだ適当に答えをはぐらかす事も出来るが、この場所でこの雨の中この少女以外誰も居ないのなら、聞いてくれる人がいるならば言ってもいいのではないか、不思議とそう思えた。
「雨の日って気持ちが沈むだろう?そういう時に来た方が…悲しんでいる気分になれる、からかな」
「悲しくないのなら無理に悲しむ必要は無いと思うわ」
まるでライルがそう応える事を知っているようだ。少女はこの雨の音にも掻き消されない真っ直ぐな声で云う。
「……悲しい筈なんだけど、涙が出てこないんだ。…この人達が居なくなったと聞かされたときも」
この場所に立つたび何か身体の奥からにじみ出て来るであろう感情を待ち続ける。また涙が出なかった。今回も、その度にこの場所に埋められる棺を前に奥歯を噛み締めながら涙を堪えた片割れの姿を思い出す。此処に立つ兄は何を思っているのだろうか。少なくとも、家族への愛情の有無についてなんてそんな所から考え始めたりはしないだろうな…。
「死は見ていないのね」
「……まあね」
そう、と短く答えた少女はまたくるくると傘を回す。隣に立つライルにも雨が飛び散るのだが、腰の辺りまでしかない少女の身長だし、濡れるにしてもどこかしこ元より濡れているから構わない。それに、
「俺が見た時には棺の蓋が閉まっててな。そね蓋を開けてはくれなかったよ。……だから、この下に何があるのか…よく分からない」
そう言ってライルは傘を閉じた。黒いスーツはみるみるうちに水を吸い込んで黒さを増す。
何があるのか分からないというのは正直な感想だ。後々聞いた話では両親も妹も、身体は殆ど形を留めていなかったという。棺の中身はわずかな形見くらいなもので、それも伝え聞いただけだ。
そういえば…、と言ったところでライルは口をつぐんだ。その続きを待つように少女は再び顔を覗かせる。今度こそ同じ問い掛けをしようとした。「君は晴れた日には来ないのか」と。しかし肉親の死すら涙を流さない人間が他人の死を聞いたところでどうなるだろう。同情すら沸いてくるかわからない。もしこの少女が傘の下で死を悼み涙を流すなら、悲しみを共有するのではなく申し訳なさしか感じないだろう。この空っぽな身体ではしとどに濡れたスーツが重たいな…。それに、こんな情けない姿を年端もゆかぬ女の子に見せている事さえ、もう抵抗すら感じなかった。
「君は此処に一人で来たのかい?」
「いいえ」
「そうか。お兄さ……君くらいの年の子から見るともう俺もおじさんになるのかな…」
「そういうと傷付く?」
うふふふ、口に手を当てながらの笑い方もやっぱりどこか大人びているな。これは先が怖いぞ。もし今回のようにこの場所で会う機会があったとしても、その頃には挨拶をしてもツンと撥ね退けられるかも知れない。女の子の成長はめざましいと相場は決まっている。
「お兄さんはもう行くよ。一人きりは危ないから早く…って!?」
「わぁ、冷たい!」
ならなんで傘を閉じるんだ!心の中で叫びながら役目を取り上げた黒い傘を再び開く。そもそも雨のときにずぶ濡れという子供の好奇心を刺激した張本人がそれを言ってはおしまいだろう。何でも興味を持ってしまう年頃なのだろうが今の状態でこの子の連れが来たら十中八九怪しまれるのはライルに外ならない。
「ねぇねぇ、どうして傘を閉じたの?」
「……こうするとな、泣いている気がするんだ」
「それは雨なの?」
「そうだよ。でも泣いている気がする」
ああ、そうか。その為だ。いつからかそうしていたんだ。頬を雨が涙のように伝うから、もしかした本当は泣いているかも知れないと、期待をこめて。
ライルの黒い傘は少女の身体をすっぽりと覆う。雨からも、世界のこれから降り懸かる大きな苦難からも、こんな風に傘で防ぐことが出来たら。この世界は色とりどりの傘で埋め尽くされるだろうな。しかしそれだと道幅は今よりもっと広くならなければいけない。世界がまた狭くなってしまうと歎く人もいるかな。口に苦笑いを浮かべる。
「何か思い出したの?」
「いいや」
「…ねぇ、今度は晴れた時に来てみましょう」
パタ、と小さな傘は広がる。
「そして両腕で、もちろん傘をさしていないから拡げられるよね。そうしたらこの石を抱きしめてみましょう。青空の下でも凄く冷たくて堅いからまるで死んだ身体を抱きしめているように思えるわ」
なんて無邪気にぞっとすることを言うのだろう。
そうやって認識してしまったら、それこそ本当の終わりだ。
「まだそんな勇気がないな」
「それが本当の理由なんでしょう?臆病者のライル。でもそんなあなたが大好きよ」
少女は女の顔をして笑う。いい女だよ、あんたは十分。
再び二つの傘が十字架の前に揃う。黒い傘の斜め下に拡がる少女の傘は、頭上に拡がる雲のさらに上にある透き抜ける成層圏のように鮮やかな青だ。
「両手が自由だとこれを壊すっていう手もある。この下には何も無いんだってさ」
「気が狂ったって思われて同情されるわね」
「それは嫌だな」
私はもう少し待っていなければいけないから、という少女に別れを告げ、ライルは雨に濡れる草を踏み締める。
道路脇に停めた車のドアハンドルに手を伸ばしたとき、ふと今来た方角を振り返る。
何故振り返ったかは、分からない。
「来ちゃったのね」
後ろから近づく存在に、振り向かず女性はそう言葉を投げかけた。悲しんでいるのか怒っているのか、その言葉だけでは分からないが、まさか歓迎ではないだろう。くるくると回る青い傘が女性の表情を全て覆い隠す。
「ごめん…」
そうして男は女性の側を通り過ぎ、雨に濡れる十字架の目の前にしゃがみ込んだ。しろいカサブランカを置いていった後ろ姿を思い出す。一人になることは怖いと知っていたのに、彼を本当にひとりぼっちにさせてしまった。
「でもねぇ、言いたいことなんて沢山あるけど、まずは……お疲れさま」
ようやく女性の――母の顔を見たニールはくしゃりと表情を歪める。
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