[観察日記]
■春の庭


「これをどうぞ」
「これ……」
 シンプルな銀の鍵が一つ。
「この家の鍵です」

 ただいま!、と扉を開けて駆け込むその先に、「おかえりなさい、音也」という母の笑顔。でも、いつも公園で迎えに来るのを待っていたはずだ。
 
 



『おつかい、ちゃんとできたよ!』

 ああちがう。あったよ。
 今はもうなくなったけど、家の近くのスーパー。
 渡されたお財布とメモと、首に下げた銀の鍵。行ったんだ。
 少し先の、赤く点滅する遮断機は渡っちゃいけない。そう教わったから。目の前を通り過ぎる大きな電車の風にあおられて、身体が揺れる。みんなが歩き出して、ようやく自分も線路の上をゆっくり渡った。走っちゃだめだからね。気を付けて。止まらず、終わるまで振り返らず。そうおかあさんに言われたのをちゃんと覚えている。
 渡り切ったその時、パッと後ろを振り返った。今まで通ってきた道何度も通ったことがあるけれど、一人で歩くと知らない世界だった。心細くなった。今すぐに帰りたい。おかあさん。進むことをあきらめようとした。
 ふわり、目の前を横切る、花びら。見上げれば、青空と薄紅の桜並木が、未来の道筋を作っていた。きっとずっとそこにあったんだけど、見上げて初めて気づいた。ドキドキとワクワクが体中を駆け巡る。
 だいじょうぶ。
 メモを取り出す。大好きなものにかわる名前が書かれている。ぐっと握りしめて歩き出す。
 売っている場所が分からなくて、教えてくれたおじさんも。一人でおつかいなの?えらいね、っていってくれたレジのおねえさん。時々見る、近所のおばあちゃん。そして、
『おかえりなさい、音也』
 あの日のカレーは、おつかいで買ってきた食材で作ったカレー。いつもと違う味。
 思えば、あの頃からかあさんは、これから生きていくための術をちゃんと教えてくれていた。
 その夏に他界したから、ずっと箱の中にしまい込んでいただけで。鍵を見つければ、こんなにもたくさんの思い出がよみがえる。

「……どう、しました?」
「ううん。またひとつ、大切な思い出が思い出せたんだ。ありがとう、トキヤ。この鍵、大切にするね」
「しまい込まずにちゃんと使ってくださいね。ここへ、私の元へ帰ってくることに」
 慣れてください、と言ったトキヤの顔は、すごく幸せそうで。俺がいることでこの笑顔が生まれるなんて、すごくすごくすごく、ああ、言葉にできない。好きって言葉以外でもっと表現したいのに、ダメだな、好きって言葉以外が見つからない。あの日見上げた桜のように。
 みんなに見せてあげたいけど、ダメ。これは俺だけの大切な思い出だから。


 帰るたびに思い出すのだろう。一つ一つ。
 トキヤは記憶をCDのようだといった。これから先、きっとこの日の事も、ミュージックになる。



春の話はこれでひとまず区切りです。
debutの時の音也の話を参考に。「はじめて一人で行ったスーパー」から、はじめてのおつかいと解釈しました。昔住んでいた家もですが、もうその場所が無くなってるの切ない。