涙が一筋つたう。
その姿を、あなたは知らない。





人は、己の言動と本心が、必ずしも意にそうとは限らない。
泣きたいときに笑って、笑いたいときに泣く。
アンチノミーをもっている。
自覚処世の術として、潜在的に行うものもいる。
思い込むことで力を出せることだってあるのだ。
それら全ての過程を否定はしない。
だが、乗り越えるために、本当の自分と向き合わなければいけい。

『おいていかないで』

布団に潜り込んで、寝ぼけているだろう相手の言葉が、聞こえた。


“寂しくないよ”
出生の話をする口が、そう答えた。
全て本心を語ることはないか。
いや。あの言葉を口にした瞬間は、もしかしたらそうだったかもしれない。
父を知らず、母と別れてしまったこの男は、家族というものを、心の底ではどう思っているのだろうか。
普遍的な、家族という像を、私とて理解できていない。
だからこそ、自分では知らないものがたりを知らなければならない。
物語の中には、さまざまな人生が存在する。
誰かしらの世界に没入しながら、その物語に入りこむ。



おいていかないで
いっちゃいやだよ


目尻に涙。幼子のような寝顔だ。
その言葉を聞いて、心の弱さと言えるほど、私の内側は強くはない。
同じ心の音を知っている。
幼い頃の私は、人を愛し、信じ続けることは、とてもむずかしいのだと。
知りながらもこの道から離れることはできなかった。それ以外の生き方を知らなくて。

どこまでも違うのに。
言いたかった言葉は、同じなんですよ。


「おいていきませんよ」

答えたのは無意識だった。
思わず息を呑む。
他意はない。
寝言に返事をすると魂が戻ってこなくなる。そんな迷信もある。
その実は、良い睡眠の妨げになるから生まれた迷信だった。
根拠はわかっていても、思わず寝息を確認してしまった。


それに、夢の中のその子は誰かを追いかけ続けている。
きっと苦しいだろう。

おいていかない、そう口にしたその瞬間、何故だろう、これは音也に言わせるところのビビッときた、という感覚。
未来、まだ隣に、この男がいるようなきがした。
シンパシーが、僅かばかり揺さぶりをかけてきたのかもしれない。
『おいていかないで』
本当はそう言いたかった。
口にすれば、少しは未来が違ったのだろうか。
浮いた雫が、一筋つたうのを眺める。

『おいていかないさ』
父の声が、ありもしない言葉が、木霊する。







テレビの向こうで父の存在をさがす。
『なにかあったら頼りなさい』
意見の食い違いで、両親は離婚をした。その原因は私への教育方針。父は物静かな人で、多くは干渉してこない分、母から見たら非協力的だと思ったのだろう。二人の道は食い違い、最後に渡された、父の電話番号。いまだかけることはできない。父から連絡がくることはない。それでも、カメラの向こうにその存在を思う。父は自分の姿を見守ってくれている。だからこそ、父に誇れるその日まで、私は父に会いに行くことはできない。

母の期待にも答えたかった。
父の言うように、もっと他の遊びもしてみたかった。それを素直に言えばよかったのか。答えが出せないまま、いつか前みたいに、仲良くなってくれる。
出来ることが増えるのも楽しいし、褒めてもらえることも嬉しかった。ただ、容量が悪く身につくまでに人より時間がかかって、それが母を加速させ、父を………させた。
自分がもっとしっかりしたら、きっと二人は元通りになる。そう願いながら。
先に答えを出したのが、両親だった。
父から渡された連絡先と、
『何かあったら頼りなさい』
その言葉をまだ、頼りきれずにいる。


姿の見えない父親を探す彼。
同じものがいくつもあって嬉しいと、言っていた。
名前の音、線の数。
そんなことなど気にしたこと無いところまで、同じを見出していた。
私の名字も、確かに僅かなつながり。
彼にはいっていないが、どこかに父の姿を探すことも。
一ノ瀬。
父と親子だった、確かな証。
父の美しい文字を思い出す。
万年筆で書かれた、最初の一本線。





仕事を始めて、誕生日を特別祝うこともなくなった。
母からは毎年贈り物が届く。
それくらいで、友人といえる人間は存在せず、事務所の人から、所属役者に対する、一定のとれた形式の誕生日祝いだけが、その時だった。
それに。
誕生日の朝には、黙祷がある。
生まれる前の出来事とは言え、今なおその思いは繋がっている。消えた命への祈り。

『トキヤの誕生日はいつ?』
その問も、随分前のことだった。
春先にそんなやりとりもしていたか。




自分の誕生日を聞いてもいないのに教えてきた男は、そう問うてきた。
どうせ覚えないだろう。
「8月なんだ。てっきり秋か冬かと思ってたのに。夏男じゃん」
どうも夏男が誉め言葉の様には感じない。
生まれと性格は関係でしょう。
現にあなたの方が暑っ苦しい夏がお似合いですよ。
嫌味を込めたのに、その男は嬉しそうにいう。
「俺、夏大好き!」
「でしょうね」
その言葉すら、驚くほど似合う。
先程の『夏男』は、むしろ彼のほうが似合う。
その人の持つ季節というものがあって、音也の場合は、くっきり分かれた青空と、白い雲。照りつける太陽が背景にある。出会いの季節に心躍るにはふさわしい性質だ。
「ワクワクするもんね!それに」

「夏はね、俺の好きな花が咲く季節だから」

花を愛でるようには思えなかった。
ただ、少し目を細めて、ここにない、遠いまどろみを知っている顔だ。夏の蜃気楼。それは自分が勝手に描いた景色だろうか。魂の景色なのだろうか。






あの時の言葉を思い返す。
而して、どうやら彼は覚えていたらしい。
その証拠に、

ーーーハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー

何故、今この瞬間があるのだろうか。
そう思わずにいられない。
弦を弾く指を見つめる。
今ここに、私と音也がいる。

自分の誕生日だというのに、体調を崩したのを知られたくなかったのだが。結局、バレてしまう。
押し問答も、結局気力体力負け。布団の中に押し込められ、子守唄……とは程遠いものを聞かされている。
彼の音楽は、体の内側から鳴り響いている。
音は、命は、誰しも持っている共通の楽器。
それを知っているかのようだ。

音は繋がり、誰かが生きていた証拠として、残る。
絶え間なく響いているはずなのに、時折音楽を忘れたのかもしれないとさえ、思えてしまう。
何故だろう。


バースデーソングが終わりに近づこうとしている。

ーーーハッピーバースデイ
ーーーディア

ーーートキヤ


彼が歌う、私だけのためだけに歌われる唄。

「ハッピーバースデートゥーユー」


おめでとう。
拍手の代わりに鳴らされる弦。
そしてこれが、プレゼント、と差し出されたのはスポーツドリンクだった。
「横で歌っといて何だけど、今日はもうやすみなよ」
「そうします」
受け取った冷たさが気持ちいい。
この年になって、人の手を煩わせるなどしたくはなかった。
でも、思い出してしまったから。
「音也」
「なぁに?」

「ありがとうございます」

「どういたしまして。まだいるようなら遠慮なく呼んでよね」
飲み物のことではないが、あえて言う必要もない。
言ってしまったら、きっともっと情けない姿を晒して、彼に心配をかけてしまう。


遠い昔、こんな風に体調を崩した私を、父と母は代わる代わる看病してくれたことを、思い出した。
日頃から忙しい両親だったから。珍しくて。
高熱で意識が朦朧としていたのに、その時は「この時間がずっと続けば良い」なんて思ってしまった。
それはいけないことだったのだろうか。
あの場所が崩れてしまった綻びは、己の足元から伸びている。
小さな裂け目が、どんどん大きくなって、二人の間を引き離す。
塞ぎ方なんて知らない。
そんな方法、無いのかもしれない。
嫌いになれたら、いっそ楽なのに。
温かい思い出ばかり湧き出てくるのは、あの歌を聞いたからか。

冷たいスポーツドリンクを目元に当てる。
表面の水滴が、目尻を濡らす。




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なにもまとまらなーい!
もう時間的にとりあえず前に進むしか無い。