自宅ではこんなの食べてます。
みなさん、ごぶさたですー。ちょっと電波
さえ届かないところで修行みたいなことしてましたもので‥。
実際あるんです私の地方では。ブログに接続さえできない未開のデンジャラスゾーンが。
不在時には多くの方からコメントとかいただきまして、大変うれしく、感謝いたします。皆さんからのコメントで私の記事が補完されるというか、いい方向に解釈されるというか。
ほんとありがたいことですよm(u_u)m感謝。
先回の記事に書かせていただきました「頑張って」という言葉、単発で人を励ますには確かに一番ズバッとくる言葉ですよね。悪くはない。むしろいい言葉。
そういえば私、柔道やってたんですが、試合で仲間が戦っている最中には夢中で「ガンバ」を連発してましたし仲間の「ガンバ」には励まされたものでした。思い出しました。
アニメでも「ガンバの冒険」とかいうのがあったし(関係ないか)
さて、私、修行みたいなことを無事終えおかげさまで体重が激減しました。
行の後は、自分なりに感覚が澄んだというか、なんとなく衰えていた能力が復活したというか。
また、あとで書かせていただくかも知れませんが、不思議な現象にも出会いました。不思議だ‥(気になりますか)。
私、行中にはこれから(退院後)私がなさなければならない役目について考えておりました。
で、行を終え、温泉に行ったのですが、温泉空いていたせいもあったのでしょう、ある子連れのかたが湯船に入った後で洗い場に大の字になられ、それを見ていた小学1、2年生の子も大の字になってました。全裸で。
おそらくこの子も大人になったら空いた温泉で大の字になり、その子どもも大の字になるんだろうなと。で、それが延々と続いていくんだろうなと。そんなことを考えたりして。
温泉で大の字になることについて、とやかく言っているのではありません。こうした親の習慣とか行動パターンは、その子どもが幼少のころから潜在意識レベルで刻まれて習慣化するんだろうなと。
ささいな一例で上げましたが、子どもは親とかの様々な行為、行動パターンを無意識に記憶し、それらはその子の人格に大いに影響を与えて行くのだなと、そう思いましたよ。
人って、習慣、思考・行動パターン、癖、いいところ・いやなところなど、育ててくれたかたのパターンがすりこまれているんですよね。もちろん私もそう。で、そうした中で、「これはいけないことだ」と反面教師にしていることもある。
子どもって白いノートみたいなもの。
特に一番身近な「育てるかたの行動」を「お手本、鏡」として真似ますよ。真似ているんです。幼い子どもには「真似ないぞ」という選択はないんです。
いきなり話は飛びますが、実は私のこれからの役目、夢というのは若い方々に夢と元気を与えることなんですよ。で、彼らの無限の可能性を行動につなげるお手伝いをしたいと。やっぱりこれしかないと。
私は決して立派な人間ではないし、多くの子どもたちに影響を与えるほどの力量はないかも知れませんが、でも私なりにできることをするのが役目…行の中でそう決意しました。やりますよ私は。
最近はレトルトカレーでもカロリー低いものがありますねー。これ、ルー大盛りでも200kcalですよ。ライス100g168kcalと合わせて368kcal。すごい満足。
さて。ブログを見てますと、たまに感動する記事に巡り会いますよね。
それは長文にでも短文にでも、ちょっとした画像にでも感じることがありますよ。
私は特に、相手のかたが頑張っておられると思われる記事を見た場合感動しますよ。で、私なりにむしょうに応援したくなったりするわけです。
で、自分の気持ちを具体的に表現しようとするんですがね。でも、決して相手のかたに「頑張って」という言葉だけは私、言えないと思ってるんです。使えない。
これはブログに限らず、日常会話についてでもです。
相手のかたが頑張っておられればおられるほど「頑張って」とは言えないのです。
相手のかたが自分より頑張っておられるのに、その相手のかたに対して、頑張りが少ない自分が「頑張って」とはやっぱり言えないと思うからなんですよね。
応援したい場合、やはり具体的に自分の気持ちを整理して、具体的言葉で伝えなければならないなと、そう思っているんですが。でもこれ、なかなか難しいんですよね。
頑張ってという言葉について、これが逆に、相手のかたの努力が少ないと思われ、つい頑張ってと言いたくなる場合があったとしても、その場合も言えません。
こちらが頑張ってと言うことはいわゆる「上から目線」であって、自分の驕りの気持ちであるような気がするのです。
応援しています、という言葉も難しいものがある。相手にプレッシャーをかけることになる気もしますし。
以前、新聞になるほどと思う記事がありました。
毎日のように公園を無償で掃除しておられるかたがおり、そのかたのことを記者が応援したくて、記事にしようとしたそうなんです。そしたら相手のかた、記事にするのはどうかやめてくださいと。記事になるとこれからの掃除が義務みたいになると。無理に頑張らなければならなくなると。自分は気ままにやりたいんだと。
なるほどなーと思いました。
そっと見守る応援っていうのもやっぱりあるんですよね。
マンゴープリンです。
お夜食にいかがですか
「あなたの人生の目的は何ですか。」
いきなりヘヴィーな質問をして恐縮です。
何っ、内容が堅いですって?では言い方を変えましょう。「あなたの人生を考えるとき、何をメインに持ってきますか。ピーク時にどんな状態になっていることを望みますか。」これでどうでしょう。
で、ここで言っておりますのは、単に趣味とか楽しみとか、健康で暮らすとか、そういういわば人生という旅の道端のものや健脚のことを指すのではなく、どこを目的地とするのかということを申しているのです。
最近よくこのテーマについて考えています。
これは難しい問題ですよ。
なぜこのようなことを考えているかと申しますと、「人生は有限で、いつしか目的、夢を叶えられないまま不完全燃焼感を持って諦めながらあの世に行ってしまうことになるのはもったいない」からですよ。
早めに目的を定め努力しておかないと、いつしかタイムリミットを迎えてしまいますからね。
ある著名な方がおっしゃってました。「人生の目的、夢がなければ行き先がわからなくて、どこか他の場所に行くことになる」と。
せっかくこの世に「生」をいただいたからには、誰しも充実した人生を歩みたいじゃないですか。フラフラ刹那的に生きて、最後、人生を振り返ったとき「思えば何も残せなかったな」(「残す」とは「財産」とかのモノではなく、例えば「あの世にも思い出として持っていけるようなことがら」を指したいのです)となるのはあまりにももったいないじゃないですか。
やっぱりそうならないためには目的が必要ですよね。「目的のない人生はバーのない走り高跳びと同じ」なんです。
で、私、昔から「人生の目的は何か、何を目的にしようかな」と考え続けてきたわけなんですよね。
でも、これは本当に難しいというかわからない問題なんですよ。私にとって。
よく「人生の目的とは何かということを解くカギは“あなたの得意なこと、何をしているときが一番楽しいか”にある」と聞きますよ。で、これをヒントに私なりに考えてきたつもりです。
ただ考えてきただけではありません。やっぱり日常の生活に追われたり、いろいろな悩みを抱えたりして、そんな中でやっぱり目的地をしっかり定めないと人生流されて行くんじゃないかと思って考えてきたつもりですよ。
でも、いまだ漠然としたことしか思いつかないのです。
今日の記事は「皆さんだったらどうなんだろう」という問題提起です。
あなたの中だけでチラッと考えていただければ幸いです。私の恥を出した甲斐があります。
おやつ、どうぞ
夜、携帯を操作していると、浅い眠りとか不眠につながったりするという新聞記事がありましたよ。
私は今、消灯後の病院の病床で携帯開いているんですがね、2時間くらい操作しているとやっぱり眠りが浅くなる気がするんですよね。
それもそうなんですが、もっとこわいことには私、最近視力が落ちてきた気がするんですよ。
先日、病室の窓から遠くのツインのタワー眺めていたら3重に見えるんですよね。
でもそのツインタワー、じつはツインじゃなく1つのタワーだったという‥。相当乱視が進んでいるのかも。
プッ。そういえばアメリカンジョークで笑っちゃうのがありましたね。
お父さんが息子にじょうずなお酒の飲み方を教えてやろうと酒場に連れていった時の話。
父「息子よ、こうして酒は飲んでも、決して酒に飲まれてはいかんぞ」
息子「はいわかりましたお父さん。ところでお父さん。酒に飲まれてきているかどうかはどうやったらわかるのですか」
父「そうだな…。あそこのカウンターに2人の客がいるだろう。あれが3人に見えたら、息子よ、お前は酒に飲まれているということだ」
息子「……お父さん…あそこには1人しか座っていないんですが…」
父「はうぁ」
はうぁと言ったかどうかはわかりませんが、1つのものが2つに見えたり3つに見えたりするということはほんと、心配なことです。
皆さんは携帯は明るいお部屋で操作し、できる限り眠る1時間前には安らかに眠る準備をいたしましょう。
さて。今日の格言です。
第1回目は「ユダヤの古い格言」です。
あなたの現在は多くの方からの恩恵で成り立っていますよね。私だってそう。でも最近私、多くの方と疎遠になってしまい、多くの方も私のこと、忘れてしまっているんじゃないかと思ったりしてむなしいんですよね。
でも、私は社会復帰したら親を含め多くの方からいただいた恩を忘れず感謝の心を持って恩返しして行きたいなと、そう思うのです。
で、文字どおりそういう意味の格言です。
「日陰を作ってくれた木を切るなかれ」
日差しの強いユダヤらしい言葉ですが意味深いものがあると思っています。