「わっ、ここの縫い、こうなってんだ。あー、だから、こっちの広がりが…」
ぶつぶつと呟きながら、丁寧に自分のコートを引っくり返す青年を、女弁護士は微笑ましく見守る。
隠れ家のような喫茶店には、静かにジャズの音色が流れている。
昔ながらのチョコレートパフェを堪能した女弁護士は、のんびりと珈琲を啜っていた。あまり来たことのないタイプの店だが、どちらの味にも満足である。機会があったら、弟や同僚と足を運んでも良いだろう。
20分程、コートをこねくりまわしていた青年は、大きく息を吐くと、女弁護士に大きく頭を下げた。
「ほんっとうに有難う御座いました!!」
「いえいえ、こんなことでそんなに喜んでもらえるなら、私も嬉しいです。」
席を立った青年は、名残惜しそうに女弁護士にコートを返す。席に戻った青年は、一口珈琲を飲んでから女弁護士を見た。
「えーっと、先刻の繰り返しになるんですけど、俺、三ツ谷隆って言います。デザイナー…って言ってもまだ駆け出しなんですけど、デザイナーやってます。名刺切らしてて、全然格好つかないんすけど…」
「ご丁寧に有難う御座います。改めまして、淡墨百合です。」
「淡墨さん。突然、こんな訳わかんないお願いきいてもらって、すみません。本当に有難う御座いました。めっちゃ勉強になりました!」
「私も、こういうお店のチョコレートパフェが美味しいって勉強になったので、お互い様ということで。ふふっ、本当に美味しかったわ。」
女弁護士の微笑みに、駆け出しデザイナーの青年は、ホッしたように笑みを返した。
「淡墨さんのコート、そのブランドの去年春の米国限定販売のだったんです。現物見られるなんて思わなくて、つい興奮しちゃって…落ち着いて、自分の行動考え直すと、初対面の人に服見せてくれとか、まじ気持ち悪くてすみません。恥ずかしいっす。」
顔を赤くして、眼を伏せる青年に、女弁護士は小さく笑う。
「服を買って、こんな形で誰かの役に立てるなんて思ってもみなかったです。」
「このコート、ご自分で購入されたんですか?」
「えぇ。限定とかってことは全然気付かなかったのだけれど。普段使いに良いなって。」
「…普段使いっぽいなとは思いましたけど、淡墨さん、もしかして金持ちですか。ここ、割りと高いブランドですよね。」
「職業柄、あまり安っぽい服だとこう、雰囲気が出なくて。職場からもあまりイメージを損なわないように、ある程度はしっかりした服装をって言われてたものだから。」
「え、何ですかそれ。お堅い職業とか。」
「えぇ、弁護士なの。」
朗らかな言葉に、青年は眼を見張る。自分とそう変わらない年頃に見え、また酷く物腰穏やかな印象からは、とても想像し難い職業に、驚くばかりである。
「あ、じゃあ、このコートも、仕事で渡米したときに買ったとか?」
「渡米というか、普段はあちらで仕事をしているんです。今は丁度日本に戻ってきてて。」
「うわっ、かっけぇ。」
「ふふっ、有難う御座います。」
女弁護士が微笑みと共に答えたタイミングで、小さな音が響く。
「あ、俺です。すみません。妹だ。」
慌ててスマホを取り出した青年は、女弁護士に小さく謝ると、電話に出る。
「どうした、マナ。…は、迎え?どこ。…学校って何で。帰れるだろ。……荷物?…あぁ…うん…うん。解った。今出先だからちょっと待ってろ。…うん、じゃあ後でな。」
電話を切ると、青年は残念そうに眉を下げた。
「すみません、妹が学校まで迎えに来いって。」
「まぁ、妹さんがいらっしゃるんですね。」
「はい、二人。ちなみに、今のは下の妹で。二人とも、ずっと俺が面倒見てきたんですけど、年が離れてるもんだから、甘やかして育てちまったもんで…」
「奇遇ですね。私も年の離れた弟がいるんです。つい甘やかしてしまうの、解ります。」
「へー!今、高校生か大学生位ですか?」
「いいえ、もうとっくに成人してて。」
笑って手を振る女弁護士に、青年は眼をぱちくりとさせる。
「…とっくに成人してる、ですか…?」
「えぇ。」
「…淡墨さんって、俺と同じ位かと思ったんですけど、もしかしてお姉さんですかね。俺25なんですけど。」
「三ツ谷さん、しっかりしてるけど、やっぱりお若いのね。私より10歳も下だわ。」
「10!?」
驚く青年に、女弁護士は眼を丸してからくすくすと笑いながら頷いた。
「み、見えねぇ……………いや、なんか、ほんとすみません、ガキの我が儘に付き合ってもらっちゃって。」
青年はテーブルに手をついて、深々と頭を下げた。
「いえいえ、私もこんな若い子とデート出来て楽しかったので。」
顔を上げた青年と微笑む女弁護士の眼が合い、二人は少しだけ照れ臭そうに笑い合う。
「俺、そろそろ行かなきゃなんで、どっか、駅とかともかく人通り多いとこまで送ります。」
「気にしないでください。一人歩きは慣れてるので。」
「…あの、言い難いんですけど、顔、動かさずに聞いてください。窓の外、先刻から男がこっちチラチラ見てんです。思い返すと、店入る前からあいつ着いてきてた気がして…。」
「…その方って、どんな感じですか。服装とか。」
「黒のスーツです。ただ、なんつーか、カタギじゃなさそうな感じで。」
「あ、それなら」
女弁護士は、くるりと窓外に顔を向けると、慌てる青年を気にすることなく、外の少し離れたところに立つ黒スーツの男に向けて手を振ってみせた。
「え?」
「心配してくれて有難う御座います。でも安心してください。彼、私のボディガードみたいなものですから。」
「え、えっ?」
女弁護士と窓外の男を驚きながら見比べれば、男は軽く頭を下げてみせた。
「う、うわー、ボディガードか!ガン飛ばさなくて良かったー。」
「ごめんなさい。あんまり近くにいられると落ち着かないから、距離を取ってもらってるばかりに、勘違いさせちゃいましたね。」
申し訳無いとばかり、窓の外の男に頭を下げる青年。
「弟が心配性なもので、私が一人で外出するときは必ず人を付けるの。アメリカにいるときはそんなことしていないから、大丈夫だと説明はしたのだけれど…。」
「いや、弟さんの判断は妥当だと思いますよ。日本も、おかしい奴はいますからね。コンクリブロックで人の頭殴ってくる奴とか。」
「まぁ。」
「あ、ビビらせて、すみません。」
「いえいえ、大丈夫です。日本でも危険はあるんだって、肝に命じておきます。」
「まぁ、そういうのだけじゃなくても、男兄弟としては、姉妹のことは心配になるものですよ。うちは妹ですけど、もし姉だったとしても、やっぱり何かと心配すると思います。何歳差とかは関係なく。」
「そういうもの、ですかね。」
「はい。」
青年はにっこり笑って頷いた。
「さてと、じゃあ行きますか。」
「はい。」
「あ、コート羽織るの手伝います。」
立つ女弁護士からコートを受け取ると、腕を通し易いよう広げる。
「有難う御座います。」
自分で襟を正し、ボタンを止める女弁護士を青年はじっと見つめる。
「三ツ谷さん?」
「やっぱり服は着てなんぼだなって思って。」
背側のシルエットを覗きこみながら真剣に答える青年を、女弁護士は微笑ましく思う。
「淡墨さん。」
「はい。」
「あの、またあっちで買った服、見せてもらえませんか。日本に来るときに着てきたのとかで良いんで…」
無茶な自覚がある青年は、気不味そうに申し出る。
「良いですよ。」
「あー、やっぱ無理で…え?」
「構いませんよ。と言っても、あんまり服に頓着しないので、三ツ谷さんのお眼鏡に叶うものを着てこられるかどうかはわからないのですけど。このコートと同じブランドだったら大丈夫かしら。」
「は、はい!そこのブランド、半分位、米国限定発売なんで!てか、日本で売ってるやつも、今の俺じゃ金額的になかなか手が出せないし、かといって店で、買わずにあんまベタベタ見るのも憚られるし!」
「じゃあ時間取れそうなときに、ご連絡しますね。」
「有難う御座います!じゃあ名刺…って切らしてるんだった。待ってくださいね。えっと、ペンと…」
青年は、空になったパフェグラスの下からコースターを取り、その裏に自分の電話番号を書いた。
「これ、俺の携帯番号です。仕事用なんで変えたりしないんで。」
受け取った女弁護士は、数秒それを見詰めると、コースターを青年に返した。
「有難う御座います、三ツ谷さん。」
「え?」
「覚えました。」
そして、今見た番号を諳じてみせる。
「…合って、ます。」
「人の顔と名前と電話番号覚えるの、得意なんです。」
「流石、弁護士さん。」
青年の言葉に、女弁護士は小さく笑う。
会計を済ませ、店を出ると、青年は再度頭を下げた。
「今日は有難う御座いました!また宜しくお願いします。連絡、待ってます!」
「はい、また。」
軽く手を振り合って、二人は別れた。