飄々と振る舞っていたもの、何処か安心したように珈琲を飲み干した女弁護士に、九井は気になっていたことを問う。
「でも、百合さん。何で今更?百合さん日本に来て、もう1年近いだろ。」
「あぁ、それはきっと、ついこの間、観測されてしまったからね。」
「え?」
小さく笑う女弁護士に、九井が疑問符を浮かべたところに、カードを裏へ表へしていたマイキーが口を挟んだ。
「ねぇ、百合さん。これ百合さんのこと?」
カードの表に書かれた"紫百合"という単語を示すマイキーに頷く。
「えぇ、そうよ。私のあだ名なの。」
「紫って、眼のこと?」
「そうそう。だから、紫百合。」
九井は、マイキーの示す宛名を凝視する。
「紫百合?…紫、百合………ズィー…?ああ!!」
「何だよ、九井。」
九井の大声に、三途が面倒そうに突っ込む。
「紫百合(ズィーバッハッ)!」
女弁護士は、ゆっくりと瞬きをして、微笑んだ。
「えぇ、そうよ。」
「ズィーバッハ?何それ、姉ちゃん。」
「紫百合を中国で発音すると、そうなるの。」
「えー、あんま可愛くなくね?姉ちゃんならもっと可愛いあだ名のが合うって。ニャンニャンとかマオマオみたいなさー。」
女弁護士の負担にならない程度に、その肩にこてんと頭を預けて竜胆が言えば、女弁護士はくすくすと笑う。
「九井、それがどうかした訳?」
先刻自身の手を握ってくれた姉の手、その細い指に、自身の指を絡ませながら蘭が問う。
「ついこの間、聞いたんだよ。ほら、鶴蝶も。」
「え、俺も?」
「先週の中華マフィアとの取り引きんとき!」
「あぁ、百合さんに高級中華奢ってもらった日か。」
「そうそう。百合さん、"紫百合"って呼掛けられてた!」
「一くんは、本当に頭が良いわね。」
女弁護士は、心底感心する。
「え、じゃあ、何、もしかして百合さん、奴等と知り合いだったわけ?」
「いいえ、初対面よ。3人とも知らない顔だったわ。あちらは、私のことを知っていたみたいだけれど。」
「でも、百合さん誤魔化したよね。俺にも、あっちにも。」
「一くんに誤魔化したことは、ごめんなさい。相手方の状況が読めなかったから。」
本当に悪かったと思っているらしく、女弁護士は九井に頭を下げた。
「でも私、あちらにはちゃんと応えたのよ、『何でしょうか?』って。」
「う、うわー…俺百合さんと仲間で良かったー…。」
顔を引き攣らせて九井は言う。
「何か良くわかんねーけど、姉さんの顔が割れてるってこと?」
「うーん、そういうことではないと思うわ。杖とか眼の色、名前から推察されたんじゃないかしら。末端組織と高を括っていたけれど、私に気付いた男性は、思ったより上の組織から来ていたのかも。」
女弁護士は、カップに伸ばしかけた手を、途中で戻す。それに気付いた蘭が、まだ口を付けていない自身のカップと交換すれば、女弁護士は礼を述べて、また珈琲を口にした。
「私が梵天にいることは、とっくの昔…というか、私があちらを発つ前から知っていたでしょうし。」
「は?どーいうことだよ。」
凄む三途を、弟二人が睨み返す。
「私は何も言っていないのよ。日本の弟のところに戻る、としか。でもね。」
女弁護士は、末弟に声をかけて外してもらった髪飾りを、ローテーブルに置いた。
「これ、送別の記念にって戴いたものなの。」
東洋風の細工の髪飾り。花の意匠。
「私は、華僑に、弟の名前は勿論、弟が二人いることも、一度も話したことはないわ。」
その意匠は、ユリとランとリンドウ。
「…身辺調査済ってことか。」
九井の呟きに、女弁護士は肩をすくめてみせた。
「姉ちゃん。」
「何、竜胆。」
「先週から、この髪飾り付けてたけど、こうなるって解ってたの?」
「まぁ、観測されてしまったし、何らかのアクションはあるかな、とはね。」
「っ…言っといてよ!俺も兄ちゃんも、ついさっきまでめちゃくちゃ焦ってたんだから!」
「えー、蘭ちゃんは焦ってねぇけど。姉さんの言い付け通り、良い子にしてれば良いんだって判ってたし。」
「カッコ付けるなよ、兄ちゃん!目茶苦茶動いてたじゃん!」
「何のことぉ?」
兄の可愛こぶるような振る舞いに、弟はいらっとする。
「蘭、竜胆。」
「んー、でもさー、姉さん。」
宥めるように名を呼ぶ姉を遮るように、蘭はその手を、指を絡めて、やんわりと握った。
「俺等、姉さんがそんなヤバい奴等とオトモダチだったなんて知らなかったんだけど。確かに、俺等と姉さん、お互い、あんまり身の周りのこと詳しく共有してこなかったけどさ。」
「時々、話してたじゃない。知人と中華街で食べたご飯が美味しかったとか。」
「うん、それは聴いてたわ。姉さんに中華街に親しくしてる知り合いがいるんだなってのは知ってた。」
「俺も兄貴も普通の、一般人のダチだと思ってたよ。」
「だって、私にとっては普通の知人だもの。」
「姉さん。流石にさあ、マフィア絡みは報連相じゃねぇの。」
兄の酷く冷ややかな声に、竜胆は挟もうとした口をすっと噤んだ。兄が姉に対して、至極珍しく怒っていることを察する。
「心配させたり、怖がらせてもいけないかと思って。」
「そりゃ姉さんの心配はするけど、俺等がビビるわけねぇじゃん。」
「ごめんなさい。でも、蘭と竜胆が梵天に入る前…梵天が出来る前というべきかしら。その頃のことだから。」
「…は?んな前からなの?」
「Mr.がマフィアだって知って、先代の姉と知り合ったのがね。Mr.と知り合ったの自体は、ちょうど蘭と竜胆に連絡が付かなかった時期で。」
姉の言葉に、弟二人は固まった。
そして、それぞれ自身の顔を覆うと、兄は項垂れ、弟は天を仰いだ。
「あぁああぁ…」
「あの間かよおおおぉ。」
呻く蘭 、叫ぶ竜胆。
「職場の人に勧められた写真展で出会ったのだけれどね」
話し出す姉を、手を上げて制す。
「うん、いい、わかった。この話は、後で落ち着いてから改めて教えて。」
「…それで良いの?」
「うん、良い。竜胆も良いな。」
「ん。おっけ。」
理由は定かではないものの、兄弟が落ち着いたところで、また九井は口を開いた。
「でもさ、百合さん。そんな奴等と付き合ってたとなると、やっぱり危険な目にあったこともあるだろ。よく無事だったな。」
女弁護士は、静かに首を横に振った。
「意外かもしれないけれど、言う程、危険なことはなかったのよ。そもそも月に1回会う位だったし。」
珈琲を飲むと、女弁護士は微笑んだ。
「時々、中庭で解体ショーをしていたり、お屋敷の何処かから阿鼻叫喚が聞こえてきたり、何かの流れで阿片窟みたいな場所で人がゴロゴロしているところを覗くみたいな、社会科見学ならぬ黒社会科見学みたいなことはしたけれど。」
「え、姉ちゃん」
「でも、ヒットマンがかち込んでくるとかは年に2、3回だし、一緒に出掛けた先で爆発が起きるとかも年に1回あるかないか位よ。」
「ちょ、ちょっと待って姉さん。」
大人しくなった兄弟が復活し、周りもドン引く中、女弁護士は不思議そうに口を噤んだ。
「そんなヤバい奴等とつるんでて、姉ちゃんヤバいと思わなかったの?」
「言う程、ヤバくもないわ。ほら、梵天(ココ)だって、大差ないでしょう?」
何時ものように穏やかに微笑む女弁護士に、皆が閉口する中、辛うじて口を開いたのは九井であった。
「いや、梵天(ウチ)もやってること大差ねぇけどさ、客にそういうのは見せないし、巻き込まないようにしてんじゃん。え、百合さんとしては、どういう感じ、心持ちだった訳?」
九井の問い掛けに、カップを置いた女弁護士は、頬に手を当て、少し考えた。
「…例えば、知り合いや同僚のお宅にお邪魔したら、珍しい宗教を信仰してるおうちだったとするでしょう。独特なお祈りをしたり、祭壇があったとしても、でも、勧誘されなければ、特に此方としては問題ないじゃない?そんな感じ。」
「言い得て妙だな…。」
「表社会で学ぶ機会がないことに触れられたのは良い経験になったと思うわ。」
すると女弁護士の言葉に、四つの納得するような声が重なった。
「は?何お前等?」
兄弟が、マイキー以外の声を上げた4人を見比べた。
「あー、そーいうことな。どーりで銃の扱いに詳しかったわけだ。」
「薬物乱用者への対応がスマートだったのも。」
「臓器売買で最高額で売り付けたり、拷問器具の仕組みに詳しかったのも。」
「もしかして製薬会社の御曹司と親しいのもその関係か?」
次々と告げられる言葉に、灰谷兄弟は唖然とする。
「ま、待て待て待て。は?どういうこと?姉さんが?」
「鶴蝶!姉ちゃんが、御曹司と親しいって何?!」
「竜胆、細かいことは後に回せ。お前等、何で俺等にその話、してきてねぇわけ?特に鶴蝶、モッチー!姉さんに何かあったら、教えてくれって頼んで頼んでたよな。」
4人は顔を見合わせ、それから声を揃えた。
「百合さんが弟に心配かけたくねぇって。」
「姉さん!」
「姉ちゃん!」
「ごめんなさい、蘭、竜胆。」
眉を下げてはいるものの、然程申し訳なさそうではない姉に、弟二人は唇を戦慄かせる。
「はあ…ったくよぉ。」
そんな姉弟に、三途は大きな溜め息を吐くと、懐から銃を取り出す。そして、ガチャガチャと分解すると、女弁護士に顎で指し示した。
「春千夜くん?」
「隠してばっかだから、弟共も過保護になんだろ。教えてやれよ、おねえちゃん。」
少しだけ困ったように、二人の弟を見比べてから、女弁護士は分解された銃に手を伸ばした。
「ちょ、姉ちゃん危ないって!」
「灰谷弟共、黙って見てろ。」
三途の言葉に、動きを止めた弟は、姉の手付きに眼を見張る。そして、理解したときには、銃は組み上がっていた。
「はい、春千夜くん。」
「ん。流石だなぁ、灰谷センセ。」
スライドを確認した三途は、からかうように、しかし以前見たとき同様、内心ではその的確さと速さに関心しながら、女弁護士に笑った。
「は?姉ちゃん?え?」
「…姉さん、銃、使えるの?」
「分解と組立だけよ。撃つのは全然駄目。私が運動神経悪いの、蘭も竜胆も知ってるでしょう。」
「姉さんが運動神経悪いのは、俺も竜胆も知ってっけど、いや、そっちじゃなくて…」
「わっ、姉ちゃん完璧じゃん。え、どっか撃ってみて良い?」
「いいわけねぇだろ。」
三途から銃を受け取った竜胆が構えると、九井が止める。
そして、竜胆から銃を回収した三途が、ソファに深々と座り直すと、灰谷兄弟を見て、鼻で笑った。
「ま、つまりお前等オトートが大事に大事にしてた裏で、おねえちゃん本人はイロイロやってたってことだよ。」
「春千夜くんったら。」
笑い合う女弁護士と三途に、弟二人は押し黙るしかなかった。