扉が開いた先は、展望バーラウンジになっていた。薄暗い中、ポツンとライトに照らされたテーブルに、女弁護士は迷いなく進む。
人が近付く気配に気付いたのか、テーブルに着いていた初老の男性が立ち上がり、女弁護士の姿を確認すると嬉しそうに両手を広げてみせた。
『liry!』
『ご無沙汰しております、Mr.。この度は急な無理を聴いていただき、心から感謝致します。』
『何、此れ位であれば、隠居老人でも容易いことさ。』
軽やかな英語で会話を交わした二人は軽くハグをすると、男性が女弁護士に椅子を勧める。
『liry、そちらは随伴者かな。』
『えぇ。本日の随伴をさせた同僚の三途です。三途、此方、本日お招きくださった会長よ。』
後ろに控えていた三途を振り仰いだ女弁護士は、小さく合図をした。
『三途と申します。』
指で軽くマスクを下ろし、微笑めば、男性は少し驚いた眼をしてから破顔した。
『良い男だ、実に良い。』
『でしょう?』
悪戯っぽく女弁護士が笑う。三途は、軽く頭を下げてから、マスクを戻した。きっちりと控える三途に、三途が無理に椅子を勧めることはしない。
『下で何か飲食はしてきたかね。』
『ソフトドリンクとチョコレートケーキを少々。』
『変わりないようで、何よりだ。』
女弁護士の回答に笑いながら男性が手を挙げると、何処からともなくボーイが現れた。
『珈琲を2つ…いや3つかな。』
男性から視線を向けられた三途は、首を横に振ってから、気遣いへの感謝としてマスクの下で微笑んでみせた。
ボーイが立ち去ると、男性は椅子に深く座り、女弁護士に向き直った。
『liry、まずは元気そうで何よりだ。』
『有難う御座います。Mr.もお変わりなく。』
『いや、日々、歳を取っているよ。幸いにも大病は患っていないがね。君は少し健康的になったと見える。』
『お陰様で。弟が美味しい店に連れていってくれるもので、太ってしまいました。』
女弁護士の言葉に、二人は長閑に笑い合った。
『いや、しかしそうか、本当に弟といるのか。』
『えぇ。』
『連絡を貰っていたとはいえ、余りに急に姿を消したものだから、チャイニーズマフィアにでも拐かされたかと思っていたよ。』
『まぁ。』
『一昨日も突然連絡が来たかと思えば、飛ばしの端末ときた。』
三途は思わず、クラッチバッグを持て手に力を込めた。
この男、今何と言った。英語とはいえ、聞き間違いではない。
確かに"飛ばしの端末"と言った。
『すみません、弟がプライベートの端末で他の方に連絡するのを嫌がるもので。かといって、仕事用からご連絡して後々ご迷惑がかかっては、と。』
困ったように笑んで答える女弁護士に、思わず驚きの視線を向ける三途。
その視線に気付いたのか、女弁護士は軽く三途に手を挙げた。制止するような其れに、三途は姿勢を正した。
『まぁ、君から連絡を貰えただけで良しとするよ、liry。思うに、此方に来てから連絡をしてきたのは、私が初めてだろう?』
『えぇ、お察しの通りです。本当は、何方とも連絡を取るつもりはなかったのですが、今回は背に腹は代えられぬ状況でしたので、やむを得なくおすがりした次第で。』
『ふむ、ならば、私が選ばれたことに感謝しよう。』
運ばれてきた珈琲に口を付けて、二人は満足そうに味の感想を述べ合う。
そして、話は本日のパーティーのことに移った。
『何人かには会ったのだろう。』
『えぇ。一度何方かに接触すれば、芋蔓式にこうなることは予想していたので、仕方がありません。本当は、今日は壁の花のつもりだったのですが…結果として、会場にあったチョコレートケーキが五種類中二種類しか食べられませんでした。』
心底残念そうに宣う女弁護士に、男性は非常に愉快そうに大きな声を上げて笑った。
『いや、失礼。余りに君らしくて。』
『笑い事ではありませんよ、Mr.。私、五種類もあると聞いて、とても心踊りましたのに。』
『君なりにパーティーを楽しんだようで何よりだ。』
笑う男性に、女弁護士は態とらしく肩を竦めてみせた。
『さて、足の調子はどうかね。』
『問題ありません。』
『そうか。』
男性が挙げた手を振ると、此のテーブルを中心にライトが点く。俄に明るくなった視界に、三途は思わず眼を細めた。
男性が自身の椅子をずらし、テーブルの下にでも置いていたであろうフットレストを取り出すと、女弁護士は苦笑しながら、義肢の方の足を男性に差し出した。
迷うことなく重なり合うドレスの裾を避ける男性に三途がギョッとするものの、女弁護士本人が気にする様子はない。男性は、其のまま慣れた手付きで義足を外すと、少しの驚きと同程度の喜びを滲ませた声を漏らした。
『此の義肢、若しやとは思っていたが。』
『えぇ、会長に作っていただいたものです。』
『随分と身軽な状態で日本に来たという噂だったが、此れは残してくれたのか。嬉しいことだ。』
『日本で買い直せるものは全て処分して参りましたが、義肢はそうもいきませんので。』
『此方でも、義肢装具師は付けているのだろう?』
『普段使いの義肢は定期的に調整してますが、こういった装いの場に合わせた義肢を扱える職人はなかなか居ませんので。』
会話を続けながらも、男性は鞄から眼鏡と工具を取り出すと、丁寧に義肢の点検をしていく。
『1年振り位、しかも少し体重が増えたのですが、今日も特に問題はありませんでしたよ。』
『あぁ、そのようだな。ただ、ヒールの底に僅かに歪みがあるようだが…』
『つい先刻、何時もの感覚で立ち上がってふらついてしまったからかしら。』
『本当なら、しっかりと修理をしたいところだが、如何せん最低限の工具と材料しか持ち合わせがない。近いうちに履く予定は?』
『ありませんね。』
『ならば、次履く予定が出来たら、其のときに修理をしよう。』
そう答えると、男性は簡単な調整をしていく。
『それにしても、一昨日の連絡で良く来日出来ましたね。』
『丁度妻とハワイにバカンス来ていてね、だから工具も持ってきていたんだ。』
『あら、其れはお邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした。』
『いやいや、妻も君に会いたがっていたよ。急だったので、ハワイに置いてきてしまったが。』
『奥様、お元気ですか。』
『変わらず、一番美しい。』
『其れは何よりです。』
義肢の対応を終えた男性は、断りを入れてから女弁護士の欠損している足に触れる。
『足自体の調子はどうかね。』
『変わりありません。此方に来てから一度体調を崩して、幻肢痛があった位ですね。』
『其れは、大丈夫だったのか。』
『はい。弟がずっと付き添ってくれたので。』
繊細な物に触れるようであるにも関わらず、何処か艶かしさを漂わせる男性の手付きに、三途は密かに眉を潜める。
『無理をしないように、liry。』
『えぇ、気を付けます。』
男性が義肢を着け直すと、女弁護士は足を下ろして、軽く裾を直した。
『有難う御座いました、Mr.。』
『こうして今も使われている自分の作った物を見られるのは、隠居老人にとっては喜ばしいことだよ。』
二人はまた笑い合うと、男性は工具を仕舞い、椅子を戻した。
『さて、1杯お付き合いいただく時間は未だあるかね。』
『えぇ、勿論。』
男性が手を挙げると、再度ボーイがやって来た。
『ジャパニーズウィスキーのロックを。銘柄は任せるよ。君はどうする、liry?』
『オールド・ファッションドを、彼と同じウィスキーで。』
『チョコレートも付けてくれ。1杯位は、彼も如何がかね?』
女弁護士のオーダーに驚いている三途に気付かないのか、男性は軽く問う。
『今日の三途は私の随伴…言ってしまえばボディーガードも兼ねているので。』
『そうか、ならば仕方がないな。』
『帰ったら、ちゃんと労を労いますので。』
『そうしてやってくれ。』
そして、酒を組み合わし、また暫く談笑をする二人。
言動も顔色も変わることのない女弁護士に内心驚く三途。それ、女が飲むには強いだろーが、と内心毒づくも、灰谷兄弟の姉ということは、飲む場面を見せないだけでアルコールには強いのかもしれない、と納得もする。
それぞれのグラスが空くと、二人は適当なところで話を終えて立ち上がる。
『今夜は君に会えて良かったよ、liry。とても楽しかった。』
『此方こそ、大変お世話になりました。』
エレベーターの前には、受付の男が待機していた。
『Ms.ウスズミ。宜しければ此方をお持ちください。』
『何かしら。』
白い箱を差し出す男に、女弁護士は首を傾げる。
『君が食べ損ねた三種類だよ、liry。』
『まぁ、有難う御座います!』
『変なものは付けていないから、安心して持ち帰ってくれ。』
『Mr.に限って、そんな心配はしていませんわ。』
嬉しそうに女弁護士は箱を受け取るも、男の手が離れない。
『liry、先刻話した通り、次に其の義肢が必要になるときは事前に連絡をくれたまえ。修理と調整、合わせて3日見れば十分だ。』
言い聞かせるような男性の言葉に、女弁護士は紫を数度瞬かせ、小さく息を吐いてから、頷いた。
"OK, Mr."
"Good, liry.Good, Madonna liry."