そろそろ薬が切れる頃だと思いながら、弱まってきた風の音に少しだけ安堵する。
「…ん」
ベッドサイドライトだけを点けた部屋でタブレットを見ていた蘭は、眠る姉の小さな声に顔を上げた。
「姉さん。」
静かな声で呼び掛ければゆっくりと目蓋を開く姉。
「…ら、ん」
「うん、蘭だよ。大丈夫?姉さん。」
赤い顔に虚ろな紫瞳で姉は頷いた。しかし、その肯定が何の意味もないことを弟は知っている。痛みも苦しみも姉は自分達弟に隠すのだ。それが酷ければ酷い程。解っているからこそ、そのことを追及はせずに、ただ姉を不安にさせることがないように微笑む。汗で額に張り付く前髪を指で少しといてやれば、触れた指の冷たさに気持ち良さそうに眼を細めた。寝ている間に計った熱は38度を下ることはなく、今もそう良くはなっていないのだろう。
「姉さん、水飲む?」
ベッドサイドに置いたペットボトルを手に取って見せれば、今度は意味のある肯定が返ってきた。身体を起こしてやり、背中に枕とクッションを挟み込んでから、ストローを差して差し出す。小さく開かれた唇に優しくストローを触れさせれば、ゆっくりと嚥下した。
「何か食べたりする?」
ペットボトルをベッドサイドに戻しながら問えば、ゆらゆらと首が横に振れた。
「じゃーまた寝ちゃう前に薬飲もう。足と熱、どっちがツラい?」
「…だいじょう、ぶ。」
「うん、姉さんは大丈夫かもだけど俺が心配なの。だから薬飲んで。ね。」
頬を撫でながら請えば、暫しの間の後にゆっくりと頷かれる。
「足痛い?熱酷い?」
「…足、のほう」
「解った。」
返答に合わせて薬袋からシートを取り出す。処方された薬はどれも強く、薬効が重複しているものもあるため、一度に全種類を飲ませることは避けるように言われている。熱もかなり苦しそうだが仕方がない。解熱よりも鎮痛に重きを置いたものと、安定剤、そして睡眠薬をシートから押し出した。
「この3錠ね。自分で飲める?」
ぼんやりとした表情で弟の掌に乗せられた薬を見るとのろのろと自分の手を差し出した。力無いその様子に蘭は眉を下げて微笑んだ。
「うーん。心配だから蘭ちゃんが飲ませてあげる。姉さん、口開けて。」
落下させるように手を下ろすと姉はまた小さく口を開く。
「もう少し開けられる?」
蘭が首を傾げれば、もう少しだけ口が開かれた。
「有難う、姉さん。でもごめんね、一寸口の中触るかも。」
1錠ずつ摘まんで姉の口内に薬を入れていけば、先に断った通り、指先は唇、歯、そして熱い舌に触れた。
「もう1回水飲もうね。」
一度置いたペットボトルを再度姉に差し出す。何回か水を飲んだ様を確認すると、口から優しくストローを抜く。
「全部飲めた?」
顎に指を添えて優しく口を開かせ、中を確認する。
「うん、大丈夫そう。…横になる前に着替える?」
湿気を帯びる寝間着に気付き問い掛ければ、ゆるゆると首は横に振られた。
「じゃあ身体拭こうか。楽になるよ。」
「…ん。」
首が縦に振られたのを確認すると、用意していた洗面器に魔法瓶から湯を張る。そして何枚も用意してあるタオルの1枚を浸し、絞ってから軽く温度を調節する。
「どう、熱くない?」
「…うん。きもちいい…」
一番上のボタンを外しながら、首元にタオルを当てれば本の僅かだが姉の口角が上がった。その反応に安心して丁寧に優しく首を清めていく。袖を捲り、腕も同様に優しく拭き上げると、一度タオルを濡らし直してから軽くベッドに腰掛けた。
「姉さん、こっち。」
自分の肩に頭を預けさせれば、弱い力で服を掴まれる。
「後ろ、手入れるね。」
小さな肯定を肩から感じ取ると、ワンピース型の寝間着を器用に手繰り寄せ、裾からそっと手を差し入れた。肌になるべく直に触れないよう慎重に背を清めていけば、肩に人心地つくような吐息を感じた。
「前も拭いて良い?」
「ん。」
先程のように枕とクッションに身体を預けさせると三度タオルを濡らす。
「ごめんね、姉さん。」
一言断りを入れてから、ボタンを外していく。大きく開くことはせずに隙間から手を差し入れれば、熱に浮かされた姉は静かに其れを受け入れる。布越しに感じる凹凸に本能的に鳴ってしまう喉を悟られないよう平静を装いながら、手早く清め終えた。
安心したように息を吐いたのはどちらだったのか。
「はい、おしまい。横になろっか。」
前を閉め直しながら掛けられた声に、小さく、けれど確かに頷いた姉は怠そうに眼を瞬かせた。支えながらゆっくりと寝かせ、しっかりと布団を掛け直す。
「他に何か欲しいものある?」
優しく問えば、姉は手を伸ばして弟の頬に触れた。
「ん?蘭ちゃんは此処にいるよ。」
「…竜胆は…」
「今は部屋で寝てる。」
「……何処か、怪我をしたの…?」
姉の言葉に一瞬眼を丸くする。意識が朦朧としているだけでなく、記憶も混濁しているようだ。
「…ううん。夜だから寝てるだけ。」
「……お父さんに、叩かれたり、していない?」
「うん、大丈夫。姉さんが守ってくれてるから、俺も竜胆も親父から何もされてないよ。」
「それなら、良かった。」
頬に触れていた姉の手を取り、その指先に軽く口付ける。
「いつも有難う、姉さん。」
「…わたしこそ、ありがとう…蘭と竜胆が、いてくれるだけで…」
途中で言葉を途切れさせて、姉は眠りに落ちた。
「…おやすみ、姉さん。」
姉の手を布団に戻し、酷く優しく其の顔に触れる。
「アイツが姉さんに何かすることはもうないから。アイツ以外からも全部全部俺と竜胆が絶対に守るから。だから安心して休んで。」
甘く囁くように、同時に切実に祈るように、語り掛ける。
そして、姉に触れた自身の指先に無意識に唇を寄せた。
雨は未だ止むことはない。